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講談

こうだん(演劇・演芸)


[講談]
日本芸能の「講談(こうだん)」がどんなものかご存知だろうか?昨今では、触れたことがある人の方が珍しいかも知れない。落語・漫才などと共に「演芸」の1つとして扱われているが、これらの同じ話芸の中でも比較的影の薄い芸能となってしまったし、落語家志望者は耳にしても、講談師を目指す人の話はあまり聞かない。講談に関するものとして現在でも有名なのは、講談が大道芸として人気を博した頃に講談本が大流行した名残として、講談本の出版事業を中心に拡大・発展した日本最大の出版社「講談社」がある。前身は「大日本雄弁会」といい、東京帝国大学の弁論部の講演の演説集「雄弁」、講談を読物にした「講談倶楽部」を創刊したのが始まりだという。大衆小説の起源とも言われ、時の話題をいち早くキャッチし、講釈して興隆を極めた「講談」という芸能の栄枯盛衰を追ってみたい。

「講談」を簡単に言い表すと、リズミカルな七五調で、語呂の良い言葉の羅列の合間に、張り扇(はりせん・はりおうぎ)で釈台をパンパンと調子良く叩き、武勇伝や人情物語などを語り聞かせる寄席演芸である。現代でも用いられる慣用句として「講釈師 見てきたような嘘をつき」「講釈師 扇で嘘を叩き出し」」「講釈師 つかえた時に三つうつ」などもあり、嘘でも実しやかに本当のことと思わせるその話芸は、現代版スポーツ新聞の感覚に近い。そうは言っても魅力的…というのが講談であり、大衆メディアであるテレビ・ラジオの無かった時代には、各々の町に講釈の為の専用の場である「釈場」が設けられ、興隆を極めたという。まず講談の歴史として、芸能の成立期から入ってゆこうと思う。

講談成立までの流れは明確ではなく、「話・噺・咄・囃・談・語」いずれの場合も「はなし」と読まれるなど日常的に行われる動作とも密接で、話芸という語の成立自体も明治時代に入ってからであり、どこからが芸能と呼べるものなのか難しい。話芸を生業とした職掌の歴史に限定して遡ると、古くは上代の「風土記」の頃、各地の説話を口伝した語部(かたりべ)に始まり、室町時代に誕生した近侍の雑役・芸能僧である同朋衆(どうぼうしゅう)を経て、戦国時代の武士役職である御伽衆(おとぎしゅう)・御咄衆(おはなししゅう)に及ぶ。芸能として見るならば、高座に座して巧妙な話の演出をする現在の形式は、仏教の説教(説経)師が創造し、継承・発展させたものとされている。できるだけ年代順に追いつつ、曖昧な部分は系統別に流れを見てゆくことにする。

講談の前身である「講釈」と「講談」という名称は、日本の仏教界においては中世期頃から「説経(唱導)」の別称として盛んに用いられ、経典講釈を用いた説教教化の方法は、平安時代から鎌倉時代にかけて興隆したと言われる。その後、経典講釈系の「説経」と節談「説教」系が並行して進展するのだが、講談は「説経」の流れを汲み、他の話芸、落語や漫才などは「説教」の流れを汲んでいると言われる。いずれも目的は仏教の教えを一般民衆に解り易く説話形式にしたもので、僧体のみならず門付芸人なども普及の一手を担った。
同じく中世期、盲目の琵琶法師と同様「平家物語」「源平盛衰記」などを話して聞かせる「物語僧」と呼ばれる説経法師が登場し、後に南北朝の動乱を描いた「太平記」などの軍記物(戦記物語・軍談とも)を読む「太平記読み」が誕生する。太平記読みは江戸時代初期・慶長年間に、赤松法印が徳川家康の前で「太平記」などを読み聞かせたことが始まりと言われ、元禄年間の頃には庶民を相手に「町講釈」が誕生し、今日の講談に続いているという。
また戦国時代から江戸末期、主君に近侍して話し相手となった、武士役職である「御伽衆(おとぎしゅう)」が講談に繋がるとも言われている。「御咄衆(おはなししゅう)」とも呼ばれ、多くの戦国大名が御伽衆を置き、当初は戦陣の合間の慰め役として武辺話などを面白く語るものであったが、次第に領国経営など役立つ知識を有する古老・浪人などの任務となり、更に江戸中期以降の天下泰平と世には、大名の幇間のような存在になった。この武家出身の御伽衆の流れが講談師となり、町人出身の御伽衆の系列が落語家になったとも言われている。

これらの流れを経て、江戸時代初期の大道芸の1つである「辻講釈(つじこうしゃく)」が誕生するが、これが寄席演芸としての講談の直接の原型と言われている。辻講釈は生活に窮する軍事学者・浪人らが「太平記読み」などを行い、流浪しつつ門付をして投銭を得たことが始まりだと言われているのだが、前述の「太平記読み」の流れを継承しており、軍記物・物語などを講義・解釈しつつ調子を付けて語るものなので、この「軍談読み」が登場したのは、新しい試みで生じたものではなく、旧来より存在した説経が変形・発展したものと考える方が自然の流れであると見られている。浅草に太平記場を設けた名和清左衛門や、堺町で軍談を講釈した赤松青竜軒などが江戸の講釈師として活躍していたとされ、名和清左衛門は辻講釈の祖ともいわれている。
江戸時代中期には、口演場所を固定した「町講釈(まちこうしゃく)」が登場し、宝永年間には公許の常設小屋で上演され「講釈」と呼ばれるようになるが、町講釈・辻講釈・野天講釈・夜講釈・座敷講釈など口演の場により名称を違えていた。文政年間には独りで口演する話芸として寄席演芸の1系統を確立し、台本を釈台に置き、張り扇を叩きつつ話す現在の形式が完成する。江戸・大坂などの中心街に設けられた釈場では、多くの講釈師を輩出し、宝井・貞山・神田・松林(しょうりん)・伊東・桃川・田辺などの流派が誕生した。話芸として登場人物の口調や読み分けなどの演出にも工夫がなされ、浪人出自の芸能であるため武勇伝・仇討ち・お家騒動・政談の類を得意としていたものが、庶民の生活を描いた、受けの良い「世話物」や巷のニュースを講釈するなど、題材的に多様化していった。文化・文政期から天保期の間は、「世話物」の全盛期となり、この流れを作った馬場文耕の功績は大きいのだが、彼は金森騒動(岐阜県郡上の百姓一揆・お家騒動)を「珍説森の雫」と題して講釈したため幕府の反逆者として処刑された。大塩平八郎の乱の後すぐに「大塩事件」を読んだ塚田太琉や、狂講を行った霊全や深井志道軒など、この時代には学識を持ち世情を批判するような、社会評論家とも言えるより庶民向けの講談師が多く登場した。入場料を取る「木戸銭」と呼ばれる制度を始めたのも講釈の寄席が最初だという。天保の改革で衰微を見せたが、江戸末期から明治時代にかけて講談は全盛期を迎え、話芸の中心的存在となって人気を博した。巷の事件・噂をいち早く採り入れて講釈したので、講釈の人気演目を参考に多くの歌舞伎・浄瑠璃などの作品が作られるなど他の芸能にも多大な影響を与えた。
明治時代以後、他の芸能との交流も進み、講釈は現在の名称である「講談」と呼ばれるようになった。明治維新の世相を反映した開化講談が行われたり、2代目・松林伯円と初代・桃川如燕(じょえん)は明治天皇の御前口演を行うなど、講談は更に興隆を見せる。講談速記本が大流行し、貸し本屋での人気商品に挙がるほどであったため、新聞・雑誌などにも連載されるようになった。速記本は後の大衆小説の起源ともなっているのだが、明治末期に立川文庫から出版された書き講談である「講談本」が多数世に出されたため、逆に講演の講談の方は蔭りを見せ始め、浪曲・漫才など人気大衆芸能の登場や大衆メディアの発達などの影響を受け、日陰を歩むことになった。いつの時代にあっても時に応じた題材が加えられ、そこから新しい演目が作られるという芸質は変わらないのだが、昨今のインターネットやサテライト放送などが持つ情報伝達の驚異的なスピードと伝達手段の手軽さに太刀打ちできる芸能は無いのかもしれない。
日本伝統芸能の流れとして、江戸時代頃までに成立したものは上方(京阪)を中心に誕生・発展したものが多いのだが、講談は江戸(東京)のイメージが強く、江戸で誕生・進展したものではあるが、担い手である講談師は江戸以外から移ってきた者が多い。明治時代の上方には講談師が大勢おり「釈場」も多数あったが、内容的には同じだが節が付された「浪曲」の登場や「講談本」(書き講談)が多数出版されるなど江戸と同様、急速に衰退し、戦前には3代目・旭堂南陵1人しかいない時期もあったようだ。講談の普及・理解への尽力により、現在では数十名の講談師が関西で活躍している。

次に、講談の演目について触れてみる。多彩な題材から何でもありの話芸のように見えるかも知れないのだが、「軍談」「御記録物」「世話物」の3つに大別される。
軍談(ぐんだん)  合戦など戦を題材にしたもので、軍記物から取材した「源平盛衰記」「太閤記」「三方ヶ原戦記」「太平記」等がある。
御記録物(おきろくもの)  将軍家・大名家に伝わる記録・伝記を題材としたもの。講釈師は「俺は天下の御記録読みだ」と昔は威張っていたらしい。この変化形が「御家騒動物(おいえそうどうもの)」であり、「赤穂義士伝」「慶安太平記」「伊達評定」等がある。
世話物(せわもの)  「生世話(きぜわ)」「準世話(じゅんせわ)」と2大別されるが、更に細分類すると以下のようになる。
白浪物(しらなみもの)  泥棒物を題材としたもの。「石川五右衛門」「鼠小僧」等がある。
怪談物(かいぶつもの)  お化け・幽霊の類が登場するもの。「四ツ谷怪談」が代表的である。。「四ツ谷怪談」が代表的である。
名人譚・出世譚(めいじんたん・しゅっせたん)  世話物の王道で、浪曲では出世物と呼ばれる。「左甚五郎」「紀之国屋文左衛門」等がある。
侠客物(きょうかくもの)  任侠・侠客・やくざ物を題材としたもの。「清水次郎長」「木津勘助」等がよく演じられ人気がある。
武芸物(ぶげいもの)  連戦連勝・負け知らずの剣豪が主人公のもの。「宮本武藏」「荒木又右衛門」等がある。
お裁き物(おさばきもの)  現在、時代劇として人気があるジャンルで「政談」とも呼ばれる。「大岡越前守」「水戸黄門漫遊記」が有名で、TVの長寿番組も元は講談種である。

実際には上述の分類に全て区分される訳ではなく、2つのジャンルにかかる演目もあるし、「探偵講談」のように明治時代に作られた新しいジャンルや、現代の新作物の多くは上述のジャンルに当てはまらないものが多い。また講談は浪曲と同様の分類体系と言われているが、浪曲にある「ケレン物」と呼ばれる、滑稽物・お笑いのジャンルは無かったようだ。話芸として相互に影響し合ってきた講談・浪曲・落語・漫才などに共通して言えるのは、他芸のヒット作を移入し、自分の芸能舞台に作り変えてヒットを生む類が多いことである。しかし日本の伝統芸能として代表的な歌舞伎・能楽・文楽の間でも同様の移入作業が多く存在するので、大衆の要望・時流を汲み取り互いに凌ぎを削り合う大衆芸能にあっては、当然なのかもしれない。

次に、少し掘り下げて講談の内容と本質的な部分に入ることにする。
本来、講談は歴史的事件を中心とした題材に注釈を付け、一般民衆に読み語る話芸であり、創作性が濃い落語と違い、講談は史実に基づいた内容が中心であり、オチも付けない。しかし全体的に笑いを含んで演出し、講釈や講談の語のイメージよりは柔らかく、伝統芸能ではあるが旧態墨守でなく、基本を継承しながら時代に対応して変化するような、近年の新作物では特にそうした傾向がある。講釈の時代から続く「軍談」は、講談師が作り上げた特有のリズムを持ち、特に朗々と読み上げる合戦の場面は「修羅場(しゅらば)」と呼ばれており、その名の通りクライマックスを演出するため、講談師の呼吸・調子と張り扇の間合い・響きで全体を盛り上げる。修羅場は序・破・急の3つの呼吸があり、江戸時代中期の滋野瑞竜軒(しげのずいりゅうけん)が修羅場の名人として有名である。馬場文耕の弟子・森川馬谷が、定打ち(定席)の釈場を設けるとともに軍談・御家騒動物・世話物での3部立てを確立して以来、前座・中座(二つ目)・後座(真打ち)の順位が定まり、寄席演芸としての基礎ができ上がった。
講談が「前座見習い」「前座」「二つ目」「真打ち」と昇進していく序列社会があるのは落語などの寄席芸能に共通であり、舞台に立つのは前座から、高座に上がる時、入場テーマ曲である「出囃子」を持つことが出来るのは二つ目以上、トリの高座を務めることが出来るのは真打ちからと、制約がある。
前座名(名前)を師匠から貰い、楽屋入りするまでは「前座見習い」呼ばれ、講談師の卵として師匠宅に通って修業に励みつつ雑用をこなす。楽屋入り後は「前座」と呼ばれ、師匠の舞台の世話を担当したり、寄席の最初の一席を受け持ち舞台に上がることもある。近年は自動的に3~5年程度すると二つ目に昇進し、二つ目になると番組表に名前が掲載され、独演会を開くことも出来る。次に真打昇進の際には真打披露目が行われ口上が述べられ、寄席では主任(トリ)を務めることが出来る資格を有するのだが、落語界同様、真打昇進が容易く、流派内の真打人数による優遇や競争があるなど、真打昇進制度に問題があるとの声もある。しかしながら女流や若手の開拓はどの流派においても講談という芸能を幅広く披露する上での客層開拓のためにも重要課題であることは事実であり、現在は女流講談師の割合も増え、明るい着物姿で華を添え、若手女流による新しいジャンルの新作講談など、新たな試みも目にするようになった。また題材を解り易く解説し、一般大衆の理解を深めるという講談ならではの芸質が再評価され、世界情勢・国際的事件・経営理論などの歴史以外の題材を採り上げ、社会評論的な講談の試みもなされている。

前述のように、講談と落語は諸々似ている点が多く、相互に比較の対象となっているので、より馴染みやすい「落語」にも焦点を当て、違いがどこにあるのか探ってみることにする。
よく言われる簡単な違いは、「落語」が会話中心で成立する噺す・語る話芸であるのに対し、「講談」は情景描写が中心の、物語を読む話芸であるということである。「読む」と表現されるが単に朗読するのではなく、先に述べてきたような独特の語り調子と張り扇の音の響きとの調和で生まれるリズム感が醍醐味のものであり、この特色も含めて講談は落語より歴史が古いと言われている。また落語には特徴的な落ち(サゲ)があるが、講談には存在せず、落語では無名の登場人物(老若男女・動物)になりきって演じるが、講談にはそれがなく、登場人物は必ず固有名詞を持ち、ある程度有名な人物を採り上げる点に違いがある。演目を落語では出し物と呼び、講談では読み物と言うことや、落語では先輩のことを師匠と呼び、講談では先生と呼ぶことなど、まだ小さな違いは存在するだろうが、大体以上の点に要約できると思うのだが、これらに沿わないものも存在するので、昨今は分類が更に難しくなっているようだ。

ここで観衆の目線からの講談について、少し触れておきたいと思う。基本的に講談は、大きな場所を要さず、座布団・釈台が置ければどこでも出来るし、寄席以外での講談の会など、料亭や小会場で行われる場合には、釈台・張り扇無しで口演することもあるようだ。基本的には、高座に置かれた「釈台」と称する小机の前に座り、張り扇で机をババンバンバンと叩いて調子を取りつつ、メリハリのある独特の調子で、語る(読む)芸能である。単純なものほど難しいとはよく言われるが、張り扇一つ取っても「張り扇三年」と言われるほど、上手く叩けるようになるには時間がかかるというし、張り扇は各々の講談師が扇を真ん中から二つ割りにして和紙で包む手作りだという。また右手に持つ張り扇以外に、左手にも扇を所持することになっているが、落語の見立てのように用途があって所持される訳ではない。とにかく講談はリズムが何より大切で、リズミカルな話芸の妙味で真実を語っているかのように思わせるものだが、「講釈師 見てきたような嘘をつき」と言われるのは、語る内容は歴史的事実に基づいており、「あたかもその場で見ていたかのような」真に迫った表現をすることから、このような慣用句が生まれたものと思われる。現在、永谷演芸ホール・上野広小路亭、日本橋亭などで公演が行われているようだが、一番身近なのは、NHK子供向け教育TV番組「にほんごであそぼ」とか、「笑っていいとも!」ではないだろうか。いずれもレギュラーとして活躍中の講談師・3代目神田山陽さんの話芸が見られるので、興味があれば子供がいなくても見てみたらどうだろう。ちなみに「にほんごであそぼ」では、狂言師・浪曲師(浪花節)・浄瑠璃太夫なども出演し、独自の伝統芸能を判りやすく紹介している。
また講談の内容で言えば、「この紋所が目に入らぬか~」のTVドラマ「水戸黄門」が身近であることは前述したが、水戸黄門の始まりは、江戸時代に「黄門漫遊記」の講談演目で人気を得たのが起源とされる。黄門様がスーパースター道を歩んでいるのと同様、大岡越前・国定忠治・柳生十兵衛・清水次郎長などの映画・TVのヒーロー達も講談から生まれた。講談が大衆娯楽として一世を風靡し、人々が歴史・物語の基礎的な教養を講談から形成した時代の名残であり、また今も昔も大衆のヒーロー観があまり変わっていないということだろう。

最後に、講談界から初めて排出した重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝について触れる。講談自体も重要無形文化財の指定を受けているが、2002年、一龍斎貞水氏が講談師としては初の認定を受け、寄席の世界でも故・柳家小さん師・桂米朝師に次ぎ3人目の認定となった。「講談師 夏はお化け 冬は義士で飯を食い」という慣用句の通り、怪談物と軍談は講談の中でも重要と言われている演目だが、一龍斎貞水氏は怪談を演じさせたら当代随一とも言われているほど怪談話に秀で、「怪談の貞水」と呼ばれる。特に、特殊演出の効果を駆使し、高座もかなり飾り込む「立体怪談」は有名で、舞台から幽霊が客席に降りてくるなど、客席の恐怖は計り知れないものだ。講談高座発祥の地と言われる湯島天神で、彼が主催する「講談・湯島道場」という定期公演や、暑い夏に立体怪談が楽しめる「納涼ほらー演芸会」などが行われているそうなので、怪談話の最高峰に興味がある方は是非足を運んで体感して頂きたい。

総論
現在の講談がお世辞にも娯楽の最高峰とは呼べぬため、少々紹介に力を入れてしまった感があるので、今更ながら反省している。それというのも筆者は話し下手であるため、話芸に秀でる芸能の類の門戸を叩こうという意志がこれっぽっちも無いから話にならないので、誰か話し振りに自信がある方・興味のある方に、この芸能を盛り上げるべく努力していただきたいと思うのだ。講談種は無尽蔵であり、新たなヒーローの出現の可能性も無限大である。茶の間娯楽の最高峰が「お笑い」や「テレビゲーム」と化した昨今の日本に、かつて娯楽であったとともに社会評論や歴史教養にもなり、また国民的正義のヒーロー・黄門様などを生み出してきた講談の世界を広め、再評価できる日を大いに期待している。