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琉球古典舞踊「組踊・端踊」

りゅうきゅうこてんぶよう「くみおどり・はおどり」(演劇・演芸)


[琉球古典舞踊「組踊・端踊」]
本項の「組踊(沖縄ではクミウドゥイ)」「端踊」は、通常馴染みの薄いものであると共に、舞踊として一般的に習得できる類のものではないことを最初に触れておきたい。組踊・端踊は、明治維新前まで現在の沖縄本島に存在した独立国家・琉球王国の宮廷舞踊(古典舞踊)であり、琉球王朝が中国・日本本土・朝鮮・東南アジアなどの国々との間に外交関係を有した時代に栄えた伝統芸能である。沖縄が現在も特有の文化を有するのも、こうした背景があってのことであり、本土同様、1つの国として諸外国と交流を持ちながらも固有の文化を大切に育んでいた。琉球王朝が日本本土による廃藩置県により滅亡し、同時に宮廷舞踊であった組踊・端踊も衰亡を辿った訳であるが、今さらながら国の重要無形文化財に指定されていることに矛盾を感じるのは筆者だけではないだろう。大平洋戦争では日本で唯一戦場となり、日本本土の国政に左右され、歴史に翻弄されてきたという複雑な経緯を有するので、組踊・端踊の各々の詳細は後に述べるとして、まずは沖縄の歴史と文化に触れてゆこうと思う。

日本本土の歴史・文化は小学校から勉強するし、多少なりとも触れるものであるが、古い時代の沖縄の歴史はあまり知られていないし、教科書に登場するのも中世の琉球王国以降ではないだろうか。7世紀に著された中国の「隋書」には「流求国」の名が登場するが、琉球と同一かどうかは判明しておらず、まだ史実として沖縄である確証がない。しかし、約3万2千年前から琉球諸島(北の奄美諸島から南の八重山列島まで)には人類が居住していたことが分かっており、先史時代を経て、鎌倉時代の12世紀頃から政治的勢力が現れ始めたと考えられている。「按司(あじ)」と呼ばれる豪族が各地に現れ、互いに抗争・和解を繰り返しつつ権力が集結し、今帰仁グスク(城)を拠点とする「山北(北山)」、浦添グスクを拠点とする「中山」、島尻大里グスクを拠点とする「山南(南山)」の3国鼎立の時代に入った。黒潮・季節風を利用した海洋交易で発展し、特に時の中国王朝・明とは1372年、初めて君臣の関係を結んで以来3国各々が朝貢して張り合い、密接な関係にあったようだ。1383年、明は「琉球」という統一呼称を与えて冊封(さっぽう)し、「琉球國」が正式国名として国際的通称となった。当時の琉球は国際的にも知られるほどアジア交易の一大中継拠点として重要な位置にあり、日米和親条約を締結したペリー提督も琉球を訪問し、「琉米修好条約」を締結しているほどである。火薬の発明は中国であったが、火山の無い中国では硫黄が採れないため琉球が輸出し、朝貢品の代償に莫大な中国物産を持ち帰った。つまり琉球は貿易センターとなり中国・日本本土・朝鮮・東南アジア諸国の物資を交換流通させ、中国と朝貢貿易を行っていない国々にも物資を流通させることができる立場にあり、それにより琉球王国は栄えたのである。その後、1429年に「尚巴志(しょうはし)」が三山統一を果たし、首都を首里グスクに置き、初の独立国家を誕生させた。ここから尚(しょう)家を頂点とする琉球王国が始まり、アジア諸国との外交・貿易を通じて海洋王国へと独自の発展をし、首里城は王国の政治・経済・文化の中心として繁栄した。
統一王朝成立後約40年の1469年、伊是名島出身の金丸(かなまる)がクーデターにより政権を交代させたのが唯一の大きな政変であったが、新王朝は前例に従って中国との関係に配慮し、尚王家を継承して「尚円王(しょうえんおう)」と名乗った。琉球王国の歴史において、政権交代以前の王朝は「第一尚氏王統」、以後は「第二尚氏王統」と呼ばれ、第二尚氏王統は19代目国王の「尚泰(しょうたい)」まで約400年続くことになる。歴史はこの辺りで留め置き、舞踊の話に入ることにする。

琉球王朝成立とほぼ同時に、「組踊」「端踊」の歴史は始まる。その背景に、明による冊封を受けていた琉球は、国王が代わる毎に「冊封式」を行うための使者である「冊封使」を歓待する義務を持していたことによる。冊封とは、君臣の関係にある明の皇帝が臣下の国主を、その国の王に任命するという詔勅を与えるもので、即位式のため詔勅を携えて渡来する使節を「冊封使(さっぽうし)」と呼んだ。冊封使は詔勅と王冠を携えて渡来したため、その船を「御冠船(おかんせん・沖縄ではウクヮンシン)」と呼んでいた。前国王論祭(弔の儀式)・新国王任命の行事以外に豪華な遊宴を催したことから「七宴」と呼ばれ、前国王論祭以外の宴では貴士族の男性のみによる芸能が華々しく披露された。ちなみに七宴は、論祭(ゆさい)之宴、冊封(さっぽう)之宴、仲秋(ちゅうしゅう)之宴、重陽(ちょうよう)之宴、餞別(せんべつ)之宴、拝辞(はいじ)之宴、望舟(ぼうしゅう)之宴とあり、数百人もの使節が滞在している4~8ヶ月間に次々と開催されたようだ。そのため琉球では芸能公演専門の「踊奉行(おどりぶぎょう)」を設け、舞踊・演劇を数多く仕立てたため民俗芸能として大成された。これらの芸能を総称して「冠船踊」「御冠船踊」と呼び、冠船の渡来が開始された1404年から1866年までの400年の間に24回の冊封が行われ、その間に徐々に磨き上げられていった。

冊封式での舞踊「御冠船踊」はどのようなものであったのだろう。母胎となったのは、古来より存在した祭祀芸能であり、現在も沖縄諸島各地で盛んに行われている祭で、様々な民族芸能が演じられ、その所作(振り)に御冠船踊の素朴な面影を見ることができるという。踊奉行達は公務のかたわら薩摩や江戸の地で本土の芸能に触れ、造詣を深めつつ芸域を広めてゆき、本土の小唄踊や能、歌舞伎、狂言、中国の演劇などの影響を受け、琉球独自の楽劇として組踊が、舞踊として端踊が生み出された。

ここで御冠船踊について少し詳しく触れておく。年代と共に変遷があるようだが、形式的に純粋な舞踊の形態を持ち、琉球舞踊の総称となっている「端踊」と、端踊を組み合わせ、台詞を入れて劇構成にし、物語の筋を有する「組踊」とに大別されている。この2つが主流であるが、獅子舞・棒踊・まり踊りなどの芸能も含まれている。
端踊は、「老人踊」「若衆踊(わかしゅおどり)」「女踊」「二才踊(にさいおどり)」に分類されている。以下に各々の踊の特徴を挙げてみる。

「老人踊」は、祝賀舞踊として特に重んじられており、能の高砂(たかさご)の系譜に連なる芸能で、能の「翁」に近い位置付けのものである。祝宴・演奏会・舞踊発表会など、芸能公演の最初の幕開けに演じられ、黒紋服の翁一人、白ひげの翁・白髪の媼の二人、翁・媼・その子孫達の複数人数で踊る形式など、演出が色々あるところが能の翁と異なる。翁は扇子、媼は団扇を持って踊り、翁は長者とも呼ばれ、長寿・富貴・子孫繁昌という三拍子を兼ね備えた、人間の理想像であると言われる。老人踊の原型は「長者の大主」であり、「ムラ踊り」(収穫祭・豊年祭)で演じられている。
琉球古典音楽の中でも最も代表的な楽曲の1つ「かぎやで風節(カジャディフーブシ)」に合わせて踊られる。

「若衆踊」の若衆とは、元服前の14、5歳の少年を指すが、琉球王朝では宮廷に仕える少年を若衆と呼び、その踊りを若衆踊と称した。髪半向頭巾(かみはんこうずきん)を被り、金銀の作花と金銀の水引を差し、 緋色の振袖に錦の引羽織(ひきはおり)を着て、緋さや足袋を履き、両手に扇子を持って踊る舞で、若い女性の可憐さを意識し、若く美しい女形による艶やかな舞踊であったとされる。若衆踊の演目は多かったようだが、現在残っているものは数少ないという。その主なものが「若衆こてい節」(ワカシュウクティブシ)であり、祝賀色の強い曲で、延命長寿の願いが込められている。

「二才踊」の二才とは元服した成人男子を指し、その踊りを二才踊と呼んだ。頭はカタカシラ(まげ)に結い、白鉢巻を前結びに締め、主に黒の袷を着て、裾をあずまからげ(アジマー・アザマー)にし、広帯をしめ、白黒縦縞の脚絆を巻き白足袋を履いた姿で踊る。和文調で七・五音、七・七音の句を連ねる「口説(くどき)」という曲がよく使用され、囃子が入るのも特徴的である。若者らしいはつらつとした動きの舞踊であり、本土の舞踊の着付けや技法を巧みに採り入れている。
最も知られている演目「上り口説(ヌブイクドゥチ)」は、首里城から那覇港を出、薩摩までの船旅の道中を歌ったものであり、両手に扇子を持って踊る。他の演目に「下り口説」「高平良万歳」「麾」「前の浜」「波平大主道行口説」「湊くり節」「江佐節」などがある。

「女踊」は、琉球古典舞踊の中でも最も洗練され、独特な味わいを持ち、華やかで優雅な踊りで、古典舞踊の代表格ともいえる。女足の運び、構え、腰の使い方、目・面の当て方、手・指のこなしなどに独特の技法があり、最小限の所作によって細やかな心遣いを表現する演技力(思い入れ)が必要とされる。琉球士族の女子の礼装「胴衣(どうじん)」「下裳(かかん)」に紅型(びんがた)の打掛を羽織り、頭は琉球髷(りゅうきゅうまげ)の1つ・カラジに紫の長巾をしめ、作花・ノシ・バサラなどの飾りを髪に差し、緋足袋を履いた姿で踊る。扇・鳩・花・灯・蝶・魚・葉の七房の飾りに願いを込めた「房指輪(フサイービナギー)」をはめることもある。本土の近世初期の小唄踊の形に学んだ出端(羽)・中踊(なかおどり)・入端(羽)の三部構成は女踊の基本形であり特徴の1つである。
女踊の代表格「かせかけ(カシカキ)」は、紅型を右肩袖脱ぎ(糸巻・機織の姿を象徴)に着て、両手に糸巻きを持ち、糸を繰る所作を美しく踊る演目で、古くからある習俗にならい、娘達が愛しい人への想いを美しい織り地にして贈る姿を模している。本来は入羽(いりは)で「さあさあ節」「百名節(ひゃくなぶし)」を用いたようだが、現在は「干瀬節(ふぃしぶし)」「七尺節(しちしゃくぶし)」の二曲で踊ることが多いという。他の演目に「作田節」「伊野波節」「諸屯」「柳」「天川」「本貫花」「苧引」「本嘉手久節」「瓦屋節」「稲真積節」「女こてい節」「踊りこはでさ節」などがある。

一方の組踊は、踊奉行であった「玉城朝薫(たまぐすくちょうくん、1684~1734)」らにより18世紀に創始された歌舞劇で、沖縄の芸能や故事をもとに本土の能・狂言・歌舞伎、中国演劇等の影響を受けて誕生した。芝居・音楽・踊りと共に、美しい衣装も見どころとされるのは、能や歌舞伎の影響が強いようだ。舞踊を劇中に取り入れつつ、独特な節回しの台詞と、人物の心理や情景の描写を担当する地謡(歌)・三線(さんしん)を絶妙に調和させ、中国・日本の双方の影響を受けながらも、そのどちら風でもない琉球王朝独自の楽劇として完成した。台詞は、現在では理解し難いものではあるが、この時代に用いられた古い言葉が継承され、琉歌(りゅうか)の八八八六調を基本とし、独特の抑揚で唱えられるのが特徴的である。抑揚は男性役・女性役・身分・年齢によって決められているという。立方は、組踊音楽にのせて所作・台詞・舞踊の要素によって登場する各役柄を表現するので、筋の展開や各役柄に対する深い理解と知識が必要とされ、登場人物を的確に表現することが求められる。踊りの技法には男芸と女芸があり、いずれも男性により演じられている。立ち姿勢・歩み・視線・顔の向け方など高度に洗練された所作は、琉球王国の時代に磨き上げられた御冠船踊の動きが基本となっているため芸術的価値が高く、沖縄で発達した特色ある組踊に欠くことができない技法の一つとして芸能史上特に重要な地位を占め、地方的特色が顕著である、と評されている。
組踊の祖・玉城朝薫は、1718年に踊奉行に任命され、翌年1719年、尚敬王(第2尚氏王統13代目の王)の冊封使歓待の重陽之宴で、初めて組踊「護佐丸敵討(ニ童敵討)」「執心鐘入」の2番の演目を上演した。他に「銘苅子」「女物狂」「孝行之巻」も同年に創作して上演され、組踊の基礎が固められた。これら5番の作品は「朝薫の五番」と称され、組踊の代表格として名が挙がる。次の国王・尚穆王の冊封の時(1756年)は、田里朝直(1703~1773)と朝薫の子・奥平朝喜(1714~1773)が踊奉行に任命され、「万歳敵討」「義臣物語」「大城崩」「本部大主」の4部の組踊を作って上演した。他にも、平敷屋朝敏(1700~1734)の「手水の縁」、高宮城親雲上の「花売の縁」や、「大川敵討」「伏山敵討」「久志の若按司」「姉妹敵討」「矢蔵の比屋」「孝女布晒」「忠臣身替」など主要な作品がこの時期に誕生した。多くの優れた芸術家達により肉付けされ、磨き上げられ、数多くの演目が誕生したが、そのうち約70演目が現存するのみである。

江戸幕府が倒れ、明治維新を迎える頃の組踊の歴史は、日本本土の歴史と同様、決して平穏なものではなかった。1609年、日本本土の薩摩藩が軍勢をもって琉球に侵攻し、首里城を占拠したため、薩摩藩の付庸国とされ、以後270年間、琉球王国は表面上中国の支配の下、内情は薩摩と徳川幕府の従属国となり、日本・中国に両属するという微妙な国際関係を強いられた。更に明治維新により成立した日本政府は、1871年の廃藩置県で琉球を鹿児島県下に編入し、1872年には琉球藩とした。1879年、琉球処分により軍隊を派遣して国王・尚泰(しょうたい)を追放して王統の統治権を剥奪し、沖縄県の設置を宣言して日本本土の一部とし、琉球王国は滅亡した。これにより、御冠船踊を支えた者達、踊奉行の役者・弟子達は禄を失って路頭に迷うこととなり、芸能継承の危機的状態に陥ったが、宮廷から市井の舞台へ移った役者らは、木戸銭(入場料)を徴収して芸を披露したり、後の商業演劇などに活動の場を見つけて存続した。それまでの御冠船踊に加え、当時の民謡・風俗を取り入れた新しい芸能「雑踊(ぞうおどり)」が誕生し、従来の格調高い御冠船踊に替わり、振りの様式や衣装などに新たな一般民衆のエネルギーが加わり、大衆芸能として定着していった。また演劇の分野では組踊に替わり、歌劇・台詞劇・狂言などを誕生させ、いずれも沖縄の芸術性・美意識を確立した、他の模倣ではない独自の芸術を発展させていった。宮廷舞踊であった、古典芸能の組踊は地方へ伝播する一方、明治期に成立した商業演劇の役者により継承され、現在も伝統芸能としての組踊として定着している。
しかしながら、太平洋戦争に始まる第二次世界大戦への日本参戦の代償として、1945年の沖縄戦での4ヵ月間、死闘と悲劇が繰り広げられた沖縄本島では、多くの民衆が死に、また貴重な文化財や史料の多くが焼失してしまった。
石川市(沖縄本島中央部)は終戦直後、沖縄一の都市となり、戦後最初の行政機関「諮詢会」が設置され、その中に文化部も設置され、文化復興の活動が逆境の中でもすぐに始まったという。当時、石川収容所は周囲に金網が張り巡らされた中を道路が碁盤の目のように通り、布を張ったテントのような家が通り面して並んでいるだけの状態で、金網の外に勝手に出ることは禁止されていたが、金網の中は自由に歩き回ることができた。芸人達が各地から次々と集められる中、三線(沖縄の三味線)を持ってテントを廻り、「ヌチヌグスージサビラ(命のお祝いしましょう)」と言って芸を披露し、勇気付けた「小那覇舞天(おなはぶーてん、本名・小那覇全孝)」という芸人がいたという。沖縄のチャプリンと呼ばれ、ブーテンの愛称で親しまれた彼は、本業は歯科医であったが、弟子の照屋林助(てるやりんすけ)と共に「故人のためにも生き残った者が元気を出して沖縄を復活させよう」と活動した一人であった。沖縄漫談の祖であり、また後に多くの芸人を育てたたという、芸能の復興と地域社会の再生に貢献した偉人であり、こうした人々があってこそ沖縄の復興が成し得られたのだろう。当時、古典舞踊の台本などはほとんど消失していたが、有志や、また各地に伝播した地方の伝承者の記憶をもとに再興を果たした。
そうして1972年5月に組踊は国の重要無形文化財に指定され、伝統組踊保存会が結成し、現在では現代版組踊として、若手による伝統継承の動きも盛んである。沖縄のみならず日本を代表する優れた芸能として、当時の姿を再現・保存する活動がなされている。
一方で2004年1月、国立劇場おきなわが完成し、琉球王朝時代から脈々と受け継がれてきた琉球古典舞踊「組踊」「端踊」など、伝統芸能を支える場が再生した。当時の言葉を解する年齢層が消えてゆく状況にあることから、台詞の面で、言葉の継承に今後の課題が残されている。

以下、現存の組踊の演目にも使用されている楽器について、既に公演のあった演目を参考に紹介してみる。

「三線(サンシン)」  沖縄の代表的な楽器で、蛇味線(ジャミセン)・蛇皮線(ジャビセン)などの別名もあるが、沖縄では通称・三線である。14世紀末頃に伝来した中国の三弦が琉球の宮廷楽器として定着し、次第に一般庶民に普及し、民間芸能に用いられるなどして隆盛を極めた。それが永禄年間(1558~1570)に大阪・堺に渡来し、本土の「三味線」となった。伝来後、沖縄の音楽に合うよう工夫・改良がなされ、琉球王府では「貝摺奉行(かいずりぶぎょう)」が三線製作を担当したため名工を輩出し、名器が誕生した。棹の形状からその型は七種類に分類され、現在は新しい型の開発も行われている。

「箏(クトゥ)」  沖縄の楽器の大半は中国大陸伝来のものであるが、箏は日本本土から伝来したので大和箏(お琴)と同じものである。1702年、公務で薩摩に出かけた稲嶺盛淳が、公務のかたわら「八橋流筝曲」の演奏法を学び、瀧落菅攪、地菅攪、江戸菅攪、拍子菅攪、佐武也攪、六段菅攪、七段菅攪と船頭節、対馬節、源氏節の10曲を沖縄に伝えたとされる。その弟子の仲本興嘉(1784~1851)・興斉(1804~1865)父子が、箏演奏者として御冠船踊ではじめて箏を三線の伴奏に使用し、活躍した。その後は、興斉の高弟であった手登根順寛が箏譜(箏工工四)を編集した。

「太鼓(テーク)」  沖縄の夏の伝統行事「エイサー」で有名な太鼓だが、エイサーに用いられるのは大太鼓・締め太鼓・片面にだけ皮を張ったパーランクーの3種類で、他に平吊り太鼓・平方太鼓など大小様々ある。いずれも背負うか手に持つかして、設置するタイプではない。太鼓の胴はケヤキ・松などのくり抜き胴のものと、雑木を寄木したた桶型胴や樽型胴のものがあって、胴に鋲・紐で皮を張る。現在沖縄では寄木の樽型胴のものが普及し、エイサー太鼓とも呼ばれている。

「笛・琉笛(ファンソー)」  独特の音色を持つ6孔の横笛で、生地のままの竹笛が多く、管の両側は唐木・象牙で飾り、下端の飾孔に飾り紐を通し装飾したものもある。中国・明代の笛の構造とよく似ており「明笛」とも呼ばれるので、中国大陸から伝来したと考えられている。古典音楽では三線の伴奏楽器として使われることが多いが、民族芸能では、笛の演奏のみ、または笛が主役となって踊らせることもある。

「胡弓(クーチョー)」  全長70センチぐらいの切なげな音を発する擦弦楽器の1つで、垂直に立てて馬の尾毛を張った弓で3弦をこすって演奏する。中国大陸から伝来した胡弓は三弦だったが、沖縄音楽の表現に合わせ、1965年に又吉真栄(1916~1985)が改良して4弦の胡弓を作って普及させた。かつて胴の部分は椰子の実で作られていたという。蛇皮を張った小さな丸い胴で「沖縄胡弓」とも呼ばれており、材質・形・音色など沖縄独特の楽器として確立している。

総論
本項の「組踊・端踊」に関し、筆者もその名称から内容が理解し難かったため、琉球古典舞踊と後から名称を修正した次第であるが、これまで追ってきた伝統芸能のうち、地域限定のものの方が少ない位、芸能の普及は目覚しい。無論、本項の場合は日本本土ではないし、一度は断絶した芸能であるため、他の芸能とは事情が異なる。普及しなかった理由に着眼するなら、沖縄から見た本土に対する感情が根底にあるように思う。戦後「沖縄のチャプリン」が存在したことすら公にしたくない感覚は、確かに日本本土に居住する人間には計り知れないものだ。だからこそ、もっと深く、文化だけでも良いから伝えて欲しいと筆者は思う。
観光地・沖縄とともに、独自の伝統文化を継承する、躍動する人間の姿があるはずである。それを見て、触れて、感じてみたいと切に思う。