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猿楽

さるがく(日本舞踊)


[猿楽]
失われた芸能とも言える猿楽・申楽(さるがく)は、現在その名がほとんど使われていないし、ほぼ鑑賞することもできないのだが、能楽・狂言という2大芸能の源流であると言えば、大方どんなものか想像できるのではないだろうか。とは言え、中国から伝来した当時は散楽という娯楽的要素の濃い芸能の集合体であったから、猿楽ほど変容し美しく昇華された芸能は他に無いと思われる。長い年月に渡り発展させ、現在見られる伝統芸能-能・狂言・歌舞伎・神楽等に華々しく昇華させた仕掛人は、漂泊の芸人と言えば少しはマシだが、下賎と蔑まされた七道の者や傀儡子(くぐつし・かいらいし)などであった。滑稽な物真似芸から夢幻能の幽玄世界へと移り変わった経緯を、時代背景を交えて触れてゆくことにする。

猿楽(さるがく)は、中国・唐の頃(618~907年)に盛んだった散楽(さんがく)が日本に伝来し、平安時代にその音が転訛して「さるがく・さるがう」と名が付いたとされる。散楽は、「新しい遊戯」という意味のチベット語「サンロー」が語源とされ、その起源は、古代ギリシャ・古代ローマ・アレクサンドリア・アジア西域の文化が数世紀を経て中国に伝わり、発展してきたものとされる。中国では「百戯」とも呼ばれるように、物真似・曲芸・歌・踊・呪術・手品など多種多様な芸の集合体であり、宮廷芸能である「雅楽」に対し、俗楽を意味する民間の芸能であった。
日本への伝来は雅楽・伎楽から少し遅れ、奈良時代の735年、聖武天皇が唐人の軽業芸を見たことが初めて史実に登場するが、もう少し早い時期に古散楽が移入されたとも考えられている。いずれにせよ当時の日本において、大陸由来のどの文化も斬新な最先端をゆくものに見えたに違いない。701年、大和朝廷(4~7世紀)による大宝律令制定の折に、雅楽尞(うたまいのつかさ)が創設され、外来の雅楽・舞楽・伎楽などが官制の保護を受けるのと同様に、散楽の芸人を養成するための散楽戸(さんがくこ)も設置され、散楽も正式に宮中の芸能となった。752年の東大寺本尊・大仏開眼法要などでも式楽として取り入れられ演じられたようだが、宮中所管の他の芸能と比べてあまりに庶民的で、内容的にも式楽には向かないものと判断され(最初から俗楽扱いだったはずだが)、782年、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止となってしまった。
桓武天皇が即位した翌年のことであり、これは散楽の内容的問題というより、天武系から天智系王朝へ移行した最初の天皇であった桓武天皇が、それまでと違った政策・指導力を示す意図があったためと思われる。即位直後の長岡京遷都に続く平安京への遷都の背景には、彼の身辺に続発する不幸=「呪い」を逃れるためとか、平城京周辺の豪族・寺社の勢力の肥大に対する危惧などが挙げられる。平安京造営事業と同時に行われた蝦夷征討(東北地方の鎮静化)により国民は多大な負担を課せられ、疲弊しきっていたに違いない。朝廷の保護を外れ、衰退の一途を辿ると思われた散楽が、以前より自由に街頭・寺社などで演じられたため、疲れた一般庶民を癒し、楽しませたのだろう。庶民の目に触れる機会を多く持てるようになり、これが逆に発展の足掛かりとなった。
華やかな新しい都・平安京の街頭で散楽を見た地方出身者などにより、新都の土産話と供に日本各地に自然に広まっていったのだろう。庶民の人気を博するうち、やがて各地を渡り歩き散楽を披露する集団が現れ始め、これらの集団は後には猿楽・田楽の座に成長し、又は漂泊の傀儡子たちにより吸収・変質されていった。各々の分岐の時代は定かではないが、母胎である散楽の歌・舞の一部が田楽・猿楽へ、特に物真似の部分は猿楽へ継承され、曲芸的な要素の一部は後の「歌舞伎」へ、滑稽な要素の強い芸は「演芸」へ、人形を使った芸は傀儡回しを経て「人形浄瑠璃」へ、奇術は手妻を経て「手品」へと発展し、日本古来の芸能と融合しながら各々確立してゆくのだが、猿楽以外の芸能の発展については各々の項を参照して頂くとして、本項の猿楽の流れに戻ることにする。
平安時代に入り、散楽戸は廃止され続けたものの、宴席の余興として宮中に復活した。史実によると、相撲の節会・内侍所御神楽などで芸が披露され、場を盛り上げていたようだ。しかし、再び散楽を宮中から排除させた天皇が出現する。村上天皇は聡明で学芸に秀で、漢詩・和歌を推奨すべく和歌所を置き、勅撰集「後撰和歌集」を編纂したことで知られる。彼の嗜好に合わなかったとしても頷けるのだが、宮中の祭祀規則である「新儀式」成立の963年以降、結局、宮中で演じる機会は得られず、民間の芸能として完全に外へ出されてしまった。
最初から俗楽扱いであったのだから、あるべき場に戻ったとも言えるのだが、街頭で庶民の目を楽しませつつ様々な芸が付加され、更に滑稽味の強い日本古来の芸とも融合し、娯楽のための芸能として発展してゆく。こうしていつしか滑稽芸は全て「さるがく」と呼ばれるようになり、散楽から「猿楽」として確立したのが平安時代中期の頃のことである。当時の猿楽は滑稽芸・寸劇の類であったが、これを披露して生計を立てる専門の芸能集団(座)が現れて各地を渡り歩き、一部には寺社の保護を受けて寺社の祭礼行事と結び付き、その内容を祭事的・宗教的なものに変容しつつ、密教的な呪師猿楽(しゅしさるがく)が誕生した。
呪師猿楽とは、呪師が猿楽芸を披露するもので、儀礼色の濃いものであり、現在の能の「翁」の前身である。諸大寺の法呪師の役(法要などで独特の所作で加持祈祷を行う)が猿楽師に委ねられ、呪師走りと呼ばれる所作が習い伝えられた。こうして諸大寺と強く結び付き、有名になったのが大和猿楽四座、近江猿楽六座である。
大和猿楽四座とは、結崎(観世)座・円満井(金春)座・坂戸(金剛)座・外山(宝生)座の四つで、「物真似」が持ち味の、写実的で、義理人情を扱うものが多かったといわれる。能楽の大成者・観阿弥世阿弥の父子を輩出し、現在の能の四流派に発展したことで有名であるが、四座とも当時絶大な勢力を有していた奈良・春日興福寺に参勤・奉仕していた。興福寺の法要のうち、修二会には、仏に奉納する神聖な薪を春日の花山から運び、神を迎える儀式があるが、この儀式を猿楽師に委ね、真似させて神事芸能として一般に披露した。これが薪猿楽と称されるようになり、法楽行事として人気を博し、大和猿楽が興隆する足掛かりとなったとされる。
近江猿楽六座とは、上三座(山階座・下坂座・比叡座(日吉座))と下三座(宮増座・大森座・酒人座)の六座で、「幽玄」が持ち味の、歌舞を中心とした華やかなものであったといわれる。比叡山・日吉大社の保護下で活動し、その神事を執り行っていた。日吉座の犬王・道阿弥は力量が優れ、京都・鹿苑寺で足利義満に芸を披露し大和猿楽・世阿弥をも凌ぐ芸の持ち主であったといわれる。

また猿楽の別の流れとして、滑稽な物真似芸を引き継ぎ、庶民劇として発展していった喜劇的な猿楽が誕生する。当時の猿楽は物真似や言葉芸が中心であったが、徐々にその内容が庶民の生活に沿った、世相を捉えて風刺するという笑いの庶民劇として発達し、後に「狂言」として大成した。僧侶(修験僧)・大名などを庶民の立場から風刺した内容のものが多く、南北朝の頃から室町時代には、ほぼ現在の狂言の原型が完成したといわれる。能楽誕生以前の、散楽に近い古い猿楽の姿は、現在では狂言にその面影を見ることができる。物語的要素の濃い楽劇(能)と、喜劇的な芸能(狂言)とを同じ舞台で交互に上演するという猿楽の形式は、現代の能楽の上演形式にも踏襲されているが、互いに強く影響を与え合い発展してきたと考えられている。狂言の詳細は狂言の項目に任せるとして猿楽の流れに戻ろう。

猿楽座形成期には、密教の所作や、能の「翁」に伝わる呪術的部分が演じられ、仏教の世界観を土台として幽玄の世界を織り成す芸能に発展していた。鎌倉時代後期には、「翁」をメイン演目とし、現在の能楽に見られる「翁面」の形態も出来上がっていたと考えられる。当時「翁」は猿楽座の本芸であったため、演能の最初に、必ず一座の最長老が務める特別な芸能であった。現在でも正月などの特別な時にしか演じられない、天下泰平・国土安全・五穀豊穣を祈願するもので、白式尉の翁面をつけたシテ(主役)が翁の舞を舞うものだが、前述したように現在でも呪術的な色彩の濃い独特のものである。この翁を大和猿楽・結崎(観世)座の最長老ではない観阿弥が初めて舞って以来、座の棟梁(座長)が演じることになったといわれる。これは1374年、京都・今熊野宮の祭礼での出来事で、室町幕府3代将軍・足利義満が初めて能を鑑賞し観阿弥・世阿弥父子を見出し、ここから能としての発展と隆盛に向かったため、能楽の紀元元年と言われている。
その後、義満が観阿弥・世阿弥を庇護・寵愛したことがきっかけとなり、武家全般に猿楽が流行し、各地の猿楽座が武家を中心に厚遇を受けるようになった。この頃は田楽が庶民の間で大流行しており、翁猿楽が主流だった猿楽は祝祷芸として扱われ、娯楽として一般化していなかった。猿楽座も多数組織されており、また田楽座衆とも派を競っており、幕府の庇護を受けないと仕事が得られぬ状況であった。そんな状況下で、観阿弥は幼少時から各地を巡り他座・他芸能を勉強し己の芸を磨き続けた努力の人だといわれている。猿楽を芸術として完成させるため、先人の良い所を吸収し、近江猿楽の幽玄・田楽歌舞の風流・白拍子の曲舞(くせまい)などを取り入れ、猿楽の能として大成させた。更にその子・世阿弥は父の芸風を継承し、高め、「夢幻能」に発展させた人物であるが、後世に伝えるべく「風姿花伝」を初めとする多くの著述を残し、能楽理論をまとめ、芸道の整備・能曲の製作に生涯を捧げた。ちなみに申楽(さるがく)という別表記は世阿弥がその能楽理論書の中で用いたもので、猿楽は本来神楽であるとする考えから付けられている。観世座は一世を風靡し、室町時代には能楽の完成を見るのだが、世阿弥の後年は悲運が続き、芸能界のスター街道から遠く離れた佐渡に流刑となり、かの地で没したと言われている。その後も猿楽は幕府の庇護の有無に左右されつつ、江戸時代には徳川幕府の式楽として定着し、能として洗練・完成された。江戸時代は一般庶民の目に触れる機会はほとんどなくなっていたが、勧進能(寺・橋などの修復のため資金調達手段としての公演)が催されると、多くの民衆が集まったというので、関心は高かったと思われる。能楽という言葉の成立は明治時代になるのだが、能楽の項目で触れるので、総論に入ることにする。

総論
猿楽の最初の項に、七道の者や傀儡子などが能楽へと昇華させたと書いたが、これらが文中で説明されてないじゃないかと言われそうなので、最後に補足させていただく。
中世、特に平安時代、日本の階級社会の下層部分には被差別民が多く存在した。芸で生計を立てた人々とは、その日暮らしの下層の賎民たちであり、生活のため、差別から逃れるため、その中で下克上を繰り広げていたと筆者は推測する。己の芸を磨き、生き残る道を外れれば、脱落して更に下の賎民階級として生きてゆくか死に絶える他はない。芸能全般に言えることだが、そんな影の世で芸が生まれ、発展し、生き残ってきたものが、現在にも光彩を放つ素晴らしいものばかりなのである。
最初に記したように猿楽は失われてしまい、各地の寺社の神事の余興として細々と継承されている程度なのだが、現在、能は世界的にも高い評価を受け、現存する世界最古の舞台演劇として2009年の世界無形遺産に指定されることが内定している。