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連歌・連句

れんが・れんく(和歌・俳諧)


[連歌・連句]
「連歌(れんが)」と「連句(れんく)」が本項の主題であるが、この2つの違いをご存知だろうか。いずれも和歌(わか)から派生した文芸であり、上の句(5・7・5)の17音からなる長句と、下の句(7・7)の14音からなる短句とを複数の人が順に作り、1つの詩になるように競い合って楽しむものである。形式上の大差はないとも言われるが、表現上では、連句は滑稽味や感興味が強く、連歌は格式や伝統があるイメージであり、また歴史的背景のためか、短歌を嗜む人は「連歌」、俳句を嗜む人は「連句」と呼ぶ傾向があるという。この2つは非常に近いものだと思うのだが、どちらかと言えば連歌という言葉は耳にしても連句の方はあまり知られていないようだ。以上を踏まえ、歴史を追いつつ2つの文芸の目指すところを探ってゆこうと思う。

まず連歌のような唱和(呼応・問答)形式の最古のものの初見に、記紀歌謡に収録されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と秉燭人(ヒトモシビト)の唱和や、更に遡りイザナギ・イザナミの唱和があり、日本では古くから問答形式の歌あるいは贈答歌の遣り取りを行っていたようだ。連歌を「筑波(つくば)の道」と呼ぶのは、この日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の唱和を連歌の起源とするところからであり、この頃の歌の形式は4・7・7などもあり定型歌ではあっても連歌そのものというよりは源流と言うべきものであろう。このような2人による唱和体で、連歌の初期の形のうち5・7・5に7・7を返して短歌を成立させるものは「短連歌」と呼ばれており、この後の奈良~平安期に始まり平安時代を通じて全盛となり、院政時代まで興隆が続くことになる。「万葉集」の8巻に収録されている大伴家持(おおとものやかもち)と尼との問答歌(唱和)が有名であることから、厳密に言うと万葉集が連歌の起源とも言われている。後に長大な句の連なりを一つの作品とするような長連歌(いわゆる現在の連歌)と区別するため、連歌文芸を総称して「付合文芸」と呼ぶこともある。「付合」は後述するが、連歌が前句と付句の2句の相関で成立させる文芸であるところからであろう。短連歌が形式的に完成するのは藤原定家が活躍した「新古今和歌集」の時代であり、この頃の連歌は和歌を理想に置き、和語だけを用いて作られた。その後、短連歌は徐々に長さを増し、百韻形式(100句まで連ねるもの)が出現して大衆の人気を博し一般化し、詩文の内的充実とともに専門の連歌師が生まれ、連歌壇を形成していく訳だが、まずここで連歌の基本形となっている「長連歌」について触れることにする。

連歌は日本の伝統的な詩形として1ジャンルを確立しており、連歌といえば狭義には「長連歌」を指す。多人数による連作形式を取るがために厳密なルール(式目)を基にして全体として1つの作品となる構造を持つ。和歌の強い影響下で成立しつつ進化し、その心は茶会、後の俳諧の連歌(連句)や発句(俳句)の源流となっている。即興で創作し、他人の歌を鑑賞しながら再び創作するというように繰り返しながら共同で1つの詩を制作する、世界でも類の少ない文学の形態であるという。
当初より短連歌は2人が合同で1首を作るという遊戯的な試みにより始まり、大衆に受け入れられたので、もっと大人数が集まって一座となり作成する長い唱和の形に進化してゆくのも自然な流れであろう。鎌倉時代には複数の作者によって句を連ねらてゆく長大な形式の「長連歌」に変化し、江戸時代中期にかけて和歌をも凌ぐ勢いで大流行した。「長連歌」とは短連歌に対する呼び名であり、初期には「鎖連歌」とも呼ばれ、また複数の人が一つの場に寄り合って行うものなので「座の文芸」とも言われている。
鎌倉~江戸時代の基本形となった連歌形式は、長句・短句を交互に連ねて百句で一作品とした「百韻(ひゃくいん)」「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」であり、これが現在も一般的である。百句もの句を多人数で詠み継ぐため発想が重なり反復することなども生じ、それを避けるためにルール(式目)が作られ、こうして形式を整えつつ南北朝時代から室町時代にかけて大成し、室町時代を通じて最盛期を迎えた。集団制作の詩形をとる長連歌は、鎌倉時代後期から特に天神信仰の「天神講」と結びついて発展したとされ、この連歌会は「天神講連歌会」と呼ばれていたようで、その記録は現存しており、大和国を中心に発達し、室町時代には畿内から各地へ伝播してゆく様子がうかがえる。1467年の応仁の乱で京都の文化が地方へ伝播するとともに連歌は広まり、日本各地で連歌会が行われるようになった。
最初の准勅撰連歌集である「菟玖波集(つくばしゅう)」は南北朝期の1356年、二条良基(にじょうよしもと)らによって撰集され、これにより和歌から連歌が独立し、芸術的意図の下に幽玄・優美な「有心連歌(うしんれんが)」が発達した。連歌の主要な法則を集成した「連歌初学抄」は、室町時代の1452年に一条兼良(いちじょうかねよし/かねら)により成立し、後崇光院(貞成親王)に進上されたというので、この頃には式目(ルール)も確立し、浸透していたようだ。また、室町後期の1495年に成立した准勅撰連歌集である「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」は、山口・周防の守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)の発願で、宗祇(そうぎ)らにより編まれたものである。大内氏は文化の興隆に尽力した人物で、約250人もの連歌を集め、この書は全20巻、約2000句余りの連歌の集大成となった。
南北朝期に端を発する室町文化は公卿から武家、更に大衆へと文化の担い手が移り代わる過程にあり、文化様式も大きく様変わりする面白い時代である。連歌は室町文化の代表的な遊戯の1つとして能楽と並び称されるほどだったという。この頃までに南北朝時代の歌人・二条良基(にじょうよしもと)、室町時代の連歌師・宗祇(そうぎ)、室町中期の歌人・心敬など有名な連歌師が登場し、公卿や有力寺社などで連歌会が数多く催される中で活躍していたようだ。連歌も百韻から形式の拡大が図られ、百韻を十作品あつめた「千句」、千句を十作品集めた「万句」などの形式も現れる一方、室町中期から江戸時代にかけては、より緊密な作品作りを目指して縮小・省略も行われ始め「世吉」(44句)、「歌仙」(36句)、「半歌仙」(18句)などの形式も誕生した。

大きな括りとして長連歌に触れてみたが、連歌の特殊な形式として「聯句連歌(れんくれんが)」が存在する。連歌発生の頃から日本に存在したのだが、近代までは研究対象としてあまり日の当たらなかったジャンルであったようだ。通常の連歌に五言の漢詩形式の句を交えたもので、「和漢聯句(わかんれんく)」と一般に呼ばれている。後には漢聯句に和句を交える「漢和聯句(かんわれんく/かんなれんく)」という形態にも派生して登場した。和漢聯句は第一句(発句)が和句で第二句(脇句)が漢句の形式であり、第一句が漢句で第二句が和句の形式のものは漢和聯句と呼ばれている。元々、長連歌の誕生には中国の「聯句」が介在しており、聯句は複数人が一つの主題に沿って五言二句ずつを交互に付けて進める合作形態の詩である。歴史的には漢・武帝の「柏梁台聯句」に始まるとも言われるので、紀元前には既に成立していたようだ。日本では平安中期頃より行われ、長連歌の成立に先立ち百韻の形式を確立していた。聯句連歌は主として禅林や堂上などで盛行して南北朝・室町時代の頃に最盛となり、式目(ルール)は連歌のものを緩和して用いられていたようだが、和漢聯句のための式目も制定されていた。中国と日本の詩歌の折衷のため硬軟錯落した変化の面白さと独特の味わいを有し、この和漢混淆の賦物として季語が誕生したため、聯句は漢詩と共に俳句の父ともいわれる。

さて話は戻り、長連歌のその後の歴史を追ってみよう。戦国時代から幕末にかけても連歌は必須の教養とされており、戦国時代には里村紹巴(さとむらじょうは)が連歌書を多く著すとともに多くの諸大名と交際し、武家階級にも教養としての連歌の地位を確立させた。里村家は江戸期には徳川宗家に仕え、幕府御用達の連歌師として連歌界を指導したという。戦国時代末期になると式目は煩雑になって形式に流されたためマンネリ化し、創作への活力を失い、徐々に衰退していくことになる。元来、連歌とは和歌に準じつつも、滑稽味や機知を含むものであったのだが、時代が下るにつれて和歌に非常に近い素材・用語・発想に拠るようになってしまい、簡単に言えば格式ばってつまらないものになってしまった。代わって登場したのが荒木田守武(あらきだもりたけ)・山崎宗鑑(やまざきそうかん)らによって大成された「俳諧(はいかい)の連歌」である。それまでの連歌に滑稽味や風刺、機知を取り入れた、いわゆる「俳諧」「連俳」とも呼ばれるもので、和語のみならず俗語・漢語・口語なども自由に使うことができ、伝統的な宮廷文化の枠組みの中にあった連歌の題材を自由にし、広く世相に求めたことなどにより庶民の間で人気を集め、近世以降は俳諧が本来の連歌と並存するようになる。伝統的な詩形や題材と相反する卑近なものとの組み合わせから面白味を見い出そうとする試みが、山崎宗鑑の著した「新撰犬筑波集(しんせんいぬつくばしゅう)」などにも見られ、この著書は特に「俳諧連歌集の祖」と称され今日でも有名である。その後、江戸前期に松尾芭蕉が登場する頃には俳諧の連歌は100句を詠み継ぐ百韻から、36句で完結する「歌仙(かせん)」「歌仙連歌(かせんれんが)」へと中心が移り、式目(ルール)も簡略化されていった。江戸期は俳諧が隆盛となり、松尾芭蕉や松永貞徳、井原西鶴らを輩出しつつ新たな道を突き進み、伝統的な連歌の方は廃れ、俳諧の連歌もまた江戸後期には「月並流」といわれる形式を重視したものに変化した。明治時代に入ると正岡子規が提唱した俳諧から俳句への革新によって、俳諧も衰退へと向かう。

このように連歌は現在のいわゆる連歌(狭義の連歌)と俳諧の連歌(俳諧)に大別することができ、明治時代に連歌から「発句」のみを独立させて成立したのが俳句であるという。連歌の魅力は、多数の人たちが次々と詠み継いでいくことにより十人十色の発想や変化が生じるところにあり、階層を越えて広まり、遊戯的な楽しみともなっていたのだが、文学でありながら文芸要素を持つことが仇となり衰退の一途を辿る反面、俳諧や俳句の基ともなった。この辺りは後ほど発句のところで述べるので、発句を解かり易くするために長連歌の式目について先に触れることにする。

連歌の式目(ルール)は先に述べたように、複数での一座の中で同じような発想や言葉の繰り返しを避ける為に作り出されたものである。南北朝期の1372年、二条良基が制定した「応安新式」は、初めて連歌式目を全国統一した書であり、「連歌新式」とも呼ばれている。それまでの「連歌本式」「建治新式」を基にして作られたもので、ルールの確立により、展開の美を競う文芸の性格を強めたという。連歌一巻(長連歌の1つの作品)を巻く(完成させる)ために前へと進めるために考案されたルールなので、基本的には制限のある中でも自由な変化を認め、乱脈を避けるためにあるのだが、連歌会により式目に多少違いがあるようだ。主なものを以下に挙げてみた。

「発句(ほっく)」  連歌の一番最初、第一に読まれる句であり、連衆に対する挨拶句とされ、必ず季語・切れ字を入れる。特別な客がいる場合はその人が詠む。 発句、脇(2句目)、第三(3句目)は「三つ物」と呼ばれて重視されている。

「挙句(あげく)」  発句に対し連歌を締めくくる最後の句であり、めでたい句となり、1巻を締める重要な句である。「挙句の果て」の語源でもある。

「句数(くかず)」  「春」「秋」「恋」が詠まれた句の後は2句以上は続け、5句を越えない。その他の「夏」「冬」「雑」「月」「花」「新年」などは1句で捨ててよい。伝統的な連歌・俳諧では「春」「秋」の句は3句以上と決められていた。

「去嫌(さりきらい)」  森羅万象の事物(賦物)に関しては、同分類の語(言葉)は定められた句数を隔てれば再度詠んでもよい、というように状況により使用できる語を制限したもの。

「輪廻(りんね)」  同じような発想・イメージ・言葉の繰り返しのことで、これを避けて付句することが望ましいとされる。特に打越(前句の前の句)との反復は「観音開き」と呼ばれて忌避される。

「付合(つけあい)」  前句と付句の関連を抽出して句の付け方(付様)をみるもの。平付(ひらづけ)・四手(よつで)・景気付(けいきづけ)・心付(こころづけ)・詞付(ことばづけ)・埋付(うづみづけ)・対揚(たいよう)などの型がある。

次に様式・作法を見てゆこう。用語が総じて独特だが、一々解説できないので括弧書きにした。長連歌では当初は百韻連歌を1巻とし、懐紙全紙を横に半折した折紙4枚「初折(しょおり)」「二の折」「三の折」「名残りの折」の折目を下に表裏に1句を2行に分けて書き留めてゆく。第一紙「初折」の表の右端に張行年月日・場所を細字一行で記し(端作り)、句は全紙の3分の2のあたりから書き始める。初折は表に8句、裏に14句、二の折・三の折は表裏に各14句、名残りの折には表14句、裏に8句を綴る、といった執筆(書記役)の規則がある。次に風韻のための規則には、連衆(れんじゅ)、会衆と呼ばれる連歌メンバーが2人(両吟)、3人(三吟)から十数人(大矢数)集まり、頭役(座の世話人)、宗匠(連歌を統括するベテラン)と執筆(書記)の指南・記録によって1巻を詠み進める(張行)ものとされる。亭主役(張行主)が居る場合は脇句(2句目)は張行主が詠み、第三(3句目)は相伴客か宗匠の次席が詠む。場の作法としては、会席の床の間に連歌の神である天神の画、又は名号の掛軸を掛け、花を立て、その前に文台と円座を設置して宗匠と執筆が座る。宗匠の会釈で連歌会が始まり、懐紙の折り方、墨の摺り方・使い方などの「もてなし」などを入れつつ長時間にわたる一座建立となるが、一の折は「序」に、二の折は「破」に、三・四の折が「急」に相当するなど起承転結にも注意を払って張行する。このややこしくて格式ばっている連歌形式は茶会そっくりであるが、察しの付くとおり後の「茶の湯」が真似て、今日にまで息づいている訳である。

こうした式目が連歌を共有する一座の創作の背景に必要だったことは頷けるが、創作の場にある個々にとって重荷となり、発想の豊かさや機知を阻害したであろうことも想像できる。先にも触れたように、連歌の進む新たな試みとして第一句のみを単独で鑑賞する「発句」という形式が起こり、更に松尾芭蕉らの登場により俳諧の芸術性が高まったことで「俳諧の発句」が独立して「俳句」へと発展してゆく一方で、連歌は次第に衰退していったという。

さて本項の表題にもある「連句」に、そろそろ入ってゆくことになる。「連句(れんく)」とは、既に前述している「俳諧の連歌」のことであり、その別称であり、明治期以降に「伝統的な俳諧の連歌」を表すために用いられた。別の呼称を用いた背景が少々複雑で、俳壇と連歌壇の流れを追わないと理解し難いため、当時の文学論を交えて流れを追ってみよう。

俳諧の連歌(連句)は、江戸時代前期の松永貞徳(まつながていとく)によって大成され、1651年の著書「俳諧御傘(はいかいごさん)」では俳諧の式目を定め、「貞門派(貞門俳諧)」の祖となった。和歌・連歌・狂歌・古典注釈など多岐に渡って活躍した人物で、連歌に俗言や滑稽を取り入れたため庶民の間の俳諧流行の基礎を作り、貞門派は一時代を築いた。やがて新風の「談林派(談林俳諧)」が連歌師・西山宗因や井原西鶴らにより登場し、短いながら一時代を築いた。談林派は新興町人階級の意欲や感情を詠み、斬新・軽快であり俳諧の中心になった。しかしすぐ後に松尾芭蕉が登場し「蕉風(しょうふう)」と呼ばれる新しい作風を提示すると、俳諧は芸術の域に達する。芭蕉は「さび・しおり・細み・軽み」を重んじ、閑寂で格調高い俳諧を目指したという。以上、江戸の三派を比較して貞門派の「詞付(ことばづけ、縁語・掛詞による付け方)」、談林派の「心付(こころづけ、全体的な意味や風情に応じた付け方)」に対して、蕉風は「匂付(においづけ、余情に応じる付け方)」と評された。
芭蕉没後、付句の技巧を競う「川柳」を中心として元禄期から盛行であった「雑俳」が栄えたが、江戸俳諧中興の祖と称される与謝蕪村(よさぶそん)らによって再び活気を取り戻して盛り返した。蕪村は俳画の創始者でもあり、言語感覚に優れ、その機能美を駆使して写実的で絵画的な発句を得意とした。江戸時代末期には小林一茶が現れ、俳諧師として独自の作風を創出して活躍し、約二万の発句を残している。
江戸時代を通じて俳諧は連歌形式が主流であり、発句のみを抽出して鑑賞することはあっても不動の地位にあったが、明治時代に入ると、正岡子規により従来の座の文芸である俳諧連歌から発句を独立させた個人の文芸として、近代の「俳句」が確立された。この俳句成立より後は、伝統的な座の文芸たる連歌の俳諧を近代文芸として行う場合、俳句と区別して「連句」と呼ぶようになったという。子規により提唱された「俳句革新」の動きは、それまでの連歌・俳諧に大きな転機をもたらすことになる。
国を挙げて近代化に向かっていた明治維新後の新風と混乱の中、連歌形式の文学(連歌・俳諧)を西洋近代文学の視点から「文学に非ず」と否定した正岡子規(まさおかしき)の「連俳非文学論」に端を発する。時流に乗り、俳句が近代国民文学として興隆し、700年余りも広く国民各層に親しまれ続けた連歌・俳諧は日陰に追いやられた古い文学として軽視されるようになった。連歌形式は座の文芸であるが故に感興に重点が置かれ、単なる個性の表現になり得ない社交的遊戯とも見られたためである。子規の俳句の弟子でもあった高浜虚子(たかはまきょし)は、師に反して俳諧を擁護することもできず、俳諧を「聯句(れんく)」と言い替え、子規の没後には「聯句」を「連句」にすり替えて「連句擁護論」を展開、提唱した。それより俳人が「連句」と称するようになって定着し、追随して文学者らも俳諧を「連句」と呼ぶようになったという。俳句が興隆して1ジャンルを確立し、「俳諧」が俳句や連句を含めた総称的な用語になったため、連句として独立させようとの意図があったためで、現在「俳諧」と言えば発句(後の俳句)と連句(連歌)形式の双方が含まれる。江戸時代以前は「俳諧」と言えば連句(連歌)形式のみを指す言葉であったし、芭蕉は「俳句」の祖であると一般に言われるが、連歌形式の文学の完成者もしくは大成者という表現もできるだろう。

かくして正岡子規に始まった近代俳句の隆盛の中、第二次世界大戦後には近代芸術の自閉性・独善性などが批判され、連句の集団制作性に着目し、連句的創作の存在が見直され始めた。伝統詩形として連歌・連句に再び回帰する動きも生じ、現代の作家・詩人らによる連句の試みは1960年代後半から始められ、その中心には現代詩詩人・大岡信、丸谷才一、安東次男、石川淳らによる歌仙の興行がある。歌仙連句を巻き、後で付合の雰囲気や意図を解説・対談を行うという形式によって、連句の可能性が追求された。大岡は「連詩」という概念をここから発展させ、伝統的な枠にあまり囚われない集団詩としての連句を実践する試みの中で外国語での詩作の可能性なども追求している。現在も雑誌「すばる」を中心に連句興行が続けられている。

このような復興の動きがある反面、俳句人口が100万人と言われるのに対し連句人口は数千人とも言われ、僅少といえる状態であり、規模が絶対的に小さい。複数人が一同に会して座を形成するという場所や時間の都合、式目(ルール)が複雑なこと等からくる敷居の高さなどが連句人口に歯止めをかけていると思われる。
伝統的な連句、新しい連句、双方とも現代のインターネットの普及により、ウェブ上で見知らぬ人同士が句を連ねるという新しい試みがなされている。インターネットは「座の文芸」に全く新しい可能性を導き出した。バーチャル世界において、年齢や階級などの垣根がないネットワーク上にいる全ての人が連衆(参加者)になり得るし、個と全体の絶妙の調和や思いがけない発想やイメージが広がる可能性を秘めている。連句人口増加への課題として挙げられる場所や時間の都合はウェブ上であれば容易であり、あしらいなど作法も必要なくなる訳であるが、逆に一座における風韻という発想は消えてゆく。

総論
古風と新風、伝統と革新、いずれを時代が選ぶかによって栄枯盛衰が生じる。連歌・連句においては、そうした時代のうねりが顕著に見え、本来あるべき姿を見失ってしまい、彷徨いつつ現在に至っている様に思う。文芸と文学の狭間にあって、いずれの岸辺にも到達し得ない模索の状態が長く続き、時を経すぎて誰にも行く先が解からなくなってしまったかのようである。結局のところ、現在あるという2つの流れ(伝統的連歌・連句への復古と、連句から派生した連詩・集団詩)のうち、集団詩の方が、実は伝統的連歌の本来の姿に近いようにも思える。連歌・連句を詠む集団は各々の時代を生きる人間であるのだから、わざわざ和語や旧式の式目を引っ張り出して、特定の時代の文化を真似てみても、それは既にあるべき姿ではないように思われる。英語が日本語より身近であれぱ、英語で句を詠んでみても良いという位の器でなければ、閉ざされて衰退してゆくのは必須である。