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民謡・奄美民謡・琉球民謡・アイヌ民謡

みんよう・あまみみんよう・りゅうきゅうみんよう・あいぬみんよう(雅楽・邦楽・浄瑠璃節・唄)


[民謡・奄美民謡・琉球民謡・アイヌ民謡]
民謡は世界各地に存在する民俗音楽の1つであり、主に口承によって各々の土地に伝わる伝統的な歌唱曲を指し、ほとんどの地域で独自の民謡を有し、各々の文化の発展と非常に密接だと考えられているのだが、その起源の特定は難しいようだ。日本民謡の場合、各地で庶民の間に歌い継がれてきたもので、歌だけで伴奏のないものが多い。またリズムや拍子等は不規則なものが多く、土地や気候など外的要因もあってテンポも様々、曲調も様々であるが、古代より我々の心中に根付いてきた民謡だけあって、心を強く打つような、不思議な魅力に溢れている。民謡は伝播の流れにより曲風が類別できるようなので、本土の民謡とそれ以外の標記のものを中心に歴史を振り返ってゆこうと思うが、まず民謡の位置付けについて触れておこう。(※注 唄・歌が原本により異なるものも多いため、「歌」に統一して用いることにした)

民謡(みんよう)とは民衆の間で歌い継がれてきたもので、楽譜を用いないことが世界的に共通する特徴であるが、このことは音楽専門家が作曲したものではなく、歌い手が即興で歌詞や旋律を自由に改編してきたであろうことを意味する。演じられる場は祭祀儀礼・年中行事等、社会生活様式と密接で、歌い手側による基本の主旋律は伝統的な音楽様式を保ちつつ継承されるが、聴き手側による合いの手風の掛け声(いわゆる囃子言葉)や舞踊等が、歌唱部の非言語部分として重要であり、歌を引き立たせ、賑やかな雰囲気を創造し、また歌の情景や情緒を具現化している。これらは日本民謡についても言える特徴であるのだが、現在の日本民謡は社会生活を離れ、稽古事や民謡歌手が舞台で演じる芸能の1つとして独立したジャンルと見なす傾向が強くなってきているという。いずれせよ以前は聴き手の積極的な関与が民謡の展開・発展に大きく寄与した訳であり、この「囃子」という概念は能楽が発達した時期である室町時代に初めて誕生するという。演奏であれ、言葉であれ、様々な囃子が創造される端緒に、いわゆる「能楽囃子」が基にあり、江戸時代初期~中期頃には各地の祭りで祭囃子が演奏され、また歌舞伎における歌舞伎囃子が演奏されるようになったという。日本民謡の囃子は上述のように始まったようだが、囃子の概念は日本特有ではなく世界共通のものであるようで、囃子という語は用いられないが、世界の民俗音楽の中には合いの手や囃子のような音楽が入るものが存在するのは不思議な感じがする。

次に民謡という語の起源を追ってみよう。民俗音楽の代表格として今では世界共通語のようになっている「folk song」の訳語として日本で定着した語であり、古くは「俚謡(りよう・さとうた)」「風俗(ふぞく)」「鄙歌(ひなうた)」などが同ジャンルを指す言葉として用いられ、また概して小歌や俗謡、地方・在郷歌に含められていた。「童歌(わらべうた)」や子守歌などという子供向けの歌が多いためか長らく研究対象とされず、西洋文明が入ってきた明治時代の中期、志田義秀が著した「日本民謡概論」で初めて学問の対象となり、この語が使用されたというので、民謡という語の歴史はまだ短い方である。レコード・放送業界で「民謡」という語が定着するのは戦後のことで、「田舎歌」を指す「俚謡」の差別的な印象を避け、「民謡」の文字が使用されるようになったという。こうした呼称の定着とほぼ同時に、自然発生的に生じた歌は「伝承民謡」、作者が明確な田園歌謡的な創作曲は「新民謡」と区分されるようになった。

ここから日本における民謡(主に伝承民謡)の歴史に入ってゆくことにする。
伝承民謡の多くは踊りを伴って誕生し、農民の慰安の意味も持ちつつ農村で発展したもので、特に厳しい自然環境に翻弄されながら僅かな道具と低い技術で物を生産していた人々が、農作物の無事や成功等を神仏に願う「対神仏歌(たいしんぶつうた)」に起源を求めることができるという。これは「祝い歌(いわいうた)」の通称で知られており、四季を通じ、自然崇拝的な土俗信仰の中で神仏へ捧げる歌として巫女(みこ)や神楽師、祈祷師らが当初うたっていた祝詞(のりと)風のものであった。自然が人間に及ぼす威力に尊敬や畏れを抱いていた農民らはこれを模倣し、農民達自らが祝い歌として歌った「季節歌」が生まれた。農民達の生活が四季に左右されることから「四季崇拝」が生まれ、「春歌」「夏歌」「秋歌」「冬歌」の4つを定め、各々の季節を無事に過ごすための「祝い歌」とし、季節毎に同じ歌をその季節に捧げつつ行動し、年中行事として定着していった。このように民謡を作り出し、歌い継いできたのは個人ではなく集団であるため、日本人という民族意識の底にあったであろう生活意識を民謡の中に見ることができる。
古代の祝い歌には「はつせ」「これさま」「目出度申し」「芋の種子」「蕎麦の種子」「大根の種子」等があり、現存しているものには古くは室町時代頃まで遡ると言われるような歌が全国に広く分布している。この頃の祝い歌には違う歌を用いたら凶作がくるというようなタブーもあったというので、歌の持つ意義が現在の民謡とはかなり違ったものであったことが想像できる。

その後、同じ歌でも用いる人の職業・目的・場等によりリズムや節回しの変化が生じ、歌の分化が起こる。分化した後に型が整えられ、各々の環境に適した曲名・歌詞が付けられ、独立した歌として存在するようになる。現在、日本民謡全体を明確に区分する分類体系が確立されていない状態であるが、民俗学的視野を基礎として現存する民謡の実状に即しているとして最も一般化されている民俗学者・柳田国男が発表した民謡分類法を紹介してみる。

1.田歌  畑歌も含み、畠歌・田打歌・田植歌・草取歌・稲刈歌・馬使歌等があるうち「囃子田(はやしだ)」が有名。いわゆる「田植歌」のことであり、日本列島を縦断して全国に分布している歌である。サンバイ等と呼ばれる音頭取りが歌を歌い、囃子手が太鼓を叩き、早乙女(さおとめ)達に苗を植えさせるもので、サンバイの「サ」、早乙女の「早(さ)」は田の神を意味する。今日でも太鼓・笛・鉦(かね)などを鳴らしながら行う大田植えは、中国地方の山間部にほぼ完全な形で伝承されており、形式的に平安時代の絵画に描かれたものと大差がないというから必見である。
基本は水田稲作の調子、安心感や安らぎのあるゆったりとした2拍子のリズムで、水田・畑で農作業を行う時、両手両足を交互に使って前進・後退を繰り返すことに基づいている。狭い村の集落において日常の歩行以外に躍動的なリズムに出会うチャンスが非常に少なかったと推察でき、慎ましく目立たぬよう腰を落とし静かに歩くという日常的な身体の使い方により、自然な形の2拍子のリズムが形成されたと考えられている。

2.庭歌  屋敷内の作業場での仕事に伴う歌で、麦打歌・稗搗歌・麦搗歌・臼挽歌・粉挽歌・糸引歌(糸繰歌)・籾摺歌等があり、リズムは作業の調子に合う2拍子のリズムである。日中の庭仕事であるため明るい歌詞が多い。

3.山歌  山林原野に出て歌う歌で、山行歌・草刈歌・木おろし歌・杣歌等がある。野山へ作業に行く道中の馬の背で歌ったものや、作業中に歌う歌、また山仕事中の掛け声などがある。なお山村民の弾むようなリズムを持つものの代表として神楽があり、日本各地の山村に多くの神楽が存在するのだが、その動きには地形的な要因が大きく、膝・足首等を柔軟に用いる身体の使い方と共に呼吸法も上手いという。

4.海歌  水上の生活、一般の水産作業に伴う歌で、網起歌・舟歌・網引歌・船引歌・鯨歌等があり、特に舟を漕ぎながら、あるいは船を引きながら歌う歌が多い。漁労民のリズムとして波乗りのような上下のりズム感を用いており、九州・瀬戸内等の漁労民は共通のリズム感を有するという。瀬戸内では稲作文化の影響も強く、「阿波踊り」等は腰を落として手足でリズム感を出すので、2つのリズムが重なって創り出されたと考えられている。

5.業歌  特定の職業に携わる人、いわゆる職業専門家が歌う歌で、木挽歌・綿打歌・茶師歌・酒屋歌・仕込歌・舟方節・土方節・石かち歌・鉱掘歌・鋳物歌・炭焼歌・大工歌などがある。特に山で作業をする木こりの情景を描写した木挽歌は全国的に存在するが、共通してシンプルで開放的で、力強くのびのびとしたメロディーが多い。また酒屋歌は酒所に多く点在し、新潟・湯沢市では「全国酒屋唄競演会」が現在も恒例行事となっている。

6.道歌  馬方歌(馬子歌)・牛方歌・木遣歌・道中歌・荷方節等があり、特に「馬子歌」は東北地方には現在全国的に愛唱されているものが各地に残り、「馬子唄」「馬方節」「馬喰唄」等の名称で親しまれており、更に場面別に分類すると「駄賃つけ唄」「夜曳唄」「祭礼馬子唄」「朝草刈唄」等がある。「牛方歌」は港を往復し塩・魚・雑貨等を牛の背に積み運搬する道中に歌われたものと、放牧された牛を守りながら歌う牛追い歌に分けられる。「木遣歌」の木遣は、大きな岩・木材を掛け声を掛けながら大人数で引くことで、皆の士気を高め、力を合わせるために用いられた。

7.祝歌  座敷歌・嫁入歌・酒盛歌等があり、「祝儀歌(しゅうぎうた)」とも呼ばれる。安全・成就等を祈願・感謝し、神に捧げる歌として年中行事・慶事に際して歌われるもので、ハレの歌詞内容を有する歌である。嫁入り・家移り・酒盛り歌などが代表的であるが、歌詞内容が相応しければ労作歌でも祝儀歌に転用されるものも多い。「正月事始(ことはじ)め祝い歌」「節供祝い歌」「作神(さくがみ)祝い歌」「祝福芸祝い歌」「祭礼祝い歌」などは年中行事として用いられ、その後、事を始める際の成功を祈る「開始祝い歌」や、終えた際のお礼として「終了祝い歌」も生まれ、農作中心の生活様式を背景に「収穫祈願歌」「収穫祝い歌」が定着した。農作中心の祝い歌が、やがて漁業等にも流用され、更に人の成長過程に当てはめた「人の祝い歌」として「お七夜祝い歌」「成人祝い歌」「婚礼祝い歌」「厄年祝い歌」等が誕生した。死者への「枕念仏(まくらねんぶつ)」等もこれら「人の祝い歌」の一種と見られている。
なお「長持歌」とは「箪笥(たんす)長持歌」等とも呼ばれるように婚礼の際の花嫁道中に用いられ、武家諸法度で規定された大名行列の荷物運びに街道筋の農民らが「助郷」として参加した際、習い覚えた「長持担ぎ歌」が原型になっているという。農民らが村へ戻って花嫁行列を大名行列に見立てて歌ったという成立背景から、全国各地で同じ様な節回しで歌われているのだが、北海道と沖縄にだけは江戸幕府の支配が直接及ばなかったため「長持歌」がない。

8.祭歌  宮入歌・神迎歌・神送歌・念仏歌等があり「宗教歌」とも呼ばれる。特に有名なのが沖縄エイサーの念仏歌である。浄土宗系の僧が琉歌念仏を作り、節を付けて民衆に広め、次第に豊穣祈願や恋歌などの要素を伴いつつ振り付けが加わり、芸能色が強くなったものがエイサーである。

9.遊歌  盆歌(盆踊歌)・正月歌・踊歌・鳥追歌等があり、中でも盆踊歌は全国的に存在する馴染みの深いものである。西日本では「盆踊口説(くどき)」とよばれる七七七七調か七五七五調を繰り返す長編の歌で、音頭取りが延々と語り、踊らせる歌である。東日本では「甚句」と呼ばれる七七七五調の歌で、音頭取りなしで踊り手が交互に歌うことから「順コ」が転訛して「ジンコ」から「ジンク(甚句)」となったと考えられている。なお中部地方では「盆踊口説」「甚句」の双方が混ざり合って共存している。

10.童歌  数え歌・手鞠歌・お手玉歌・子守歌などで、子供によって歌い継がれてきた歌や、子供に歌って聞かせる歌で、遊びに伴うものが多い。親子間で伝統的に継承されてきたものであり、遊び歌以外にも年中行事・自然・動・植物を扱う歌等がある。なお子守歌は労作歌に含むとする考えもある。

以上の10種類に分けられるが、目的で分けると1~6は労作歌、7・8は祝儀・祝歌、9は踊歌、10は童歌のジャンルとする分類もあるので、数も多い「労作歌(ろうさくうた)」だけ補足しておく。
労働に伴い、効率良く作業を行う目的で広く歌われるもので、仕事歌・労働歌としての意義を有する。各地に伝承される田植歌・綿打歌・米つき歌などは労働のリズムを模倣した拍節を有し、長持歌・牛追歌などは労働に対する休養として歌われる。灘酒屋歌のように作業工程を歌詞に織り込んだものもある。

上述の分類は、転用や酒宴に興を添える座敷歌として定着したこと等により、かなり錯綜しており、実際は一概に区分できないものも多い状態である。
音楽様式からの分類によると、八木節様式と追分様式とに大別できるとされる。
「八木節様式」  八木節に代表され、明確な拍節を有し、音域が狭くて単純な旋律・有節で、単純な動機を繰り返すこと等が特徴である。地搗歌・網引き歌等の労作歌や盆踊歌などである。八木節様式の曲は、集団で歌われることも多い。
「追分様式」  江差追分等のように拍子が存在しない自由リズム、装飾的歌唱法であるメリスマ的な歌い方が用いられ、広い音域を有すること等に特徴があり、馬子歌がこの様式に含まれる。追分様式の曲は歌い手に高度な技巧が必要とされるという。

さて話は歴史に戻る。
現在一般的な「民謡」の直接的の起源を求めるなら、近世初期・江戸期の77775調の流行後と言える。都会で流行したものが人々の移動と共に地方に伝わり、ある程度の期間を経て再び都会へ紹介されるという伝播の過程をとるため、その過程で新しい歌詞・旋律・リズムを部分的に改編した結果、類似の旋律を有するような歌が異なる地方で散見される訳である。また江戸期は生活様式の転換期でもあり、江戸中期、農業技術の飛躍的発達に従い、安定した収穫が保証されるようになったため、神仏に捧げる「祝い歌」は、娯楽目的のものへと転換し始める。節回しの面白い流行歌を流用し、各地域・職業等の別から生じた個性を加味し、今日のいわゆる「伝承民謡」となったものが現存する日本民謡約3万曲のうちの9割に上るという。

こうした背景からも民謡は起源の追求が難しく、また分化の時期の特定も難しいので、大きな流れだけ以下に特記することにする。
江戸前期頃、大坂を中心に「ヨイヤナ節」と呼ばれる三味線歌が誕生して瀬戸内海方面へ広まり、中国・四国・九州地方から奄美大島、沖縄諸島にまで及んだという。東日本へは海路で広まったのだが、太平洋側では「エンコロ節」という名で宮城県まで、日本海側では「まだら」という名で秋田県まで及んでいるというので、全国的に影響力を持ったことは確実である。現存する民謡の最古のものが室町時代頃と推定されているので、短歌等の文芸の比べ、口伝に頼ってきた民謡の伝承は困難であったと考えられる。よって現存する多くが江戸期頃に誕生・分化・転化したものであることを注記しておく。
さて江戸中期以降、祝い歌であった「越後松坂」が新潟県を中心に日本海側に広まった。更に北前船等の船や越後瞽女(旅芸人)により越後松坂くずしが「謙良(けんりょう)節」等と名を変えて歌ったものが全国に広まり、北海道から鹿児島・屋久島にまで広く及んだという。
また伊勢信仰の神宮式年遷宮(20年に一度の大祭)の御用材を運ぶ「御木曳(おきびき)木遣」のうち「松前木遣」は、千石船の船乗りらによって全国の沿岸部一帯に広まり、「船曳歌」「綱曳歌」「網曳歌」「大漁節」等の基となった。また「伊勢音頭」は、伊勢参りの人気と相まって日本全域で祝い歌や木遣歌として広まった。

もう一つ、全国40ヶ所のハイヤ系民謡のルーツである熊本・牛深市の「牛深ハイヤ節」の伝播に触れておく。江戸時代後期に生まれたとされ、長崎県平戸島田助、鹿児島県阿久根、福岡県小倉など九州各地に広がり、船で北上して、新潟の「佐渡おけさ」・山形の「庄内ハイヤ節」・青森の「津軽アイヤ節」・岩手の「南部アイヤ節」・宮城の「塩釜甚句(ハットセ)」・茨城の「潮来甚句」等になって定着した。各地の「おけさ」系民謡のルーツでもある。いずれも宴席に興を添える賑やかな歌として、地域により歌詞・囃子が改編された。

明治期に入り、機械化による生産性の向上が急速に生じ、作業形態の変容に伴って、収穫を神仏へ依存する度合が薄れてゆく。中でも1964年の東京オリンピックは農業国から工業国へと日本が大変身する分岐点となり、これを境に民謡は次々と姿を消していったのだが、節の良いものだけは三味線や尺八等の伴奏を加えて酒席の歌として継承された。こうした民謡界の動きは大正末期頃から起こり始め、都会での流行歌は「歌謡曲」として、田舎の歌は「俚謡(りよう)」としてレコード・放送業界に登場するようになった。とは言え、花柳界の芸者衆による「お座敷歌」や、各地の「盆踊歌」程度しか採り上げられず、聴取者拡大を目論んでの俚謡の放送も、三味線伴奏付の俗曲的なものが主流であったという。そんな中の1946年、NHKが「のど自慢素人演芸会」という番組で広く一般にマイクを開放した結果、各地から「ふるさと歌謡」とも言える様な民謡を携えて参加したため、にわかに民謡ブームが起きた。その後の民間放送の誕生や、ふるさと芸能保存運動、都会へ出てきた人々の望郷の念等が拍車をかけ、各土地の愛唱歌のような存在となっていった。

さてここまで本土の民謡をメインに取り上げてみたが、本項は奄美民謡・琉球民謡・アイヌ民謡も含んで「民謡」とする考えに則りたい。狭義の民謡は本土の民謡を指すとする定義もあるのだが、地域的に日本に含まれる以上、同じ民謡のジャンルに入って当然と思うのだが。

「奄美民謡」  奄美の島唄であり、集落によって歌い方が異なるが、南部の「ヒギャ」と北部の「カサン」に大別される。2つの違いは地形と似て、ヒギャは烈しい山谷と同様、高低の音程差があり、カサンは高い山がないのと同様、音程差が少なく大らかである。地理的に南方の遠隔地にあって中心を離れて交通が不便だった分、外来文化の影響が少なかったことにより、古い民謡の形態が比較的純粋に残っている。また琉球・薩摩藩の支配下にある時代が長く続いたという歴史的背景もあり、奄美民謡は哀愁の情を訴え・歌った島民の叫びとも言われ、独特の深い哀調を帯びている。なお「島唄(シマ唄)」という語は本来、奄美民謡を指すものであったが、沖縄のラジオパーソナリティーが沖縄民謡を「島唄」と呼称して以来、沖縄民謡も「島唄」と呼ばれるようになったされる。現・シマ歌ブームの代表曲「島育ち」「島のブルース」は全国的に有名である。

「琉球(沖縄)民謡」  現在、一般に島唄とも呼ばれる沖縄民謡は、「おもろ(沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」に収録される歌謡)」や、琉球古典音楽(琉球王朝の宮廷音楽)が源流であるという。大正末期~昭和初期を中心に、男女が夜、野原や海辺で歌や三線に興じる「毛遊び(モーアシビ)」と呼ばれる風習が広く行なわれたことによって庶民に民謡が広まったと考えられている。「毛遊び」での民謡の歌い方は、自分なりの歌い方で味付けしたり、既存の曲にアドリブで歌詞を乗せたり、逆にある歌詞に好きな曲を乗せたりと、様々だったようだが、踊り・手拍子・囃子等を加えていたとも言われ、中世期に流行した歌掛け(歌垣)とよく似たものだったようだ。
沖縄民謡は今も人々に愛され、日々新しい曲が生まれているような活きた民謡であり、民謡のライブハウス的な「民謡酒場」に行くと、生で本格的な民謡を聴くことができるそうだ。「エイサー」は沖縄の代表的な祭として有名だが、宴会の最後を締める「カチャーシー」など、イベントの最後に全員で一斉に踊り出す光景は、映画やドラマでも見たことがあるかもしれない。結婚式等の祝い事の最後はこれで実際に閉めるのが通例らしく、その際には男性が囃子的な指笛を用いるという。古典作品はほぼ全て「沖縄口(ウチナーグチ、沖縄方言)」で歌われるが、民謡の中には大和口のものもあるようだ。

「アイヌ民謡」北海道に居住するアイヌが生活文化の中で生まれたウポポ(歌)で、ヤイサマ(即興歌)というジャンルもあるほど即興性が高いのが特徴であるが故に、現存するアイヌ民謡がどの程度伝承によるところかの判別が難しい側面もある。トンコリ(アイヌの伝統楽器)や太鼓が普及する前は、合いの手や手拍子等を他の人が返していたという。現存の民謡も子守唄や労働歌、豊作・豊漁祈願などレパートリーに富むが、ユーカラと呼ばれる口承文字を基として神(自然の恵み)への感謝を歌うものが多い。江戸期以降、和人(本土の人)との交流が増え、アイヌ独自の文化が変質していったという。

総論
まず一番興味深いのに資料が非常に少なかった辺境民謡(後半に述べた本土以外の民謡)の中でも、アイヌ民謡においては特に困難であったが為に、昨今の「アイヌを先住民族と認定」の意味を考えさせられた。本土以上に純粋で長い文化を有していたにも関わらず、現存の民謡があまりにも少なく、また情報を発信する担い手も希少であるという現状に胸が痛む思いだった。
現存する最古とも言える民謡「君が代」に対する思いもこれに近い。歌詞は現在まで千年以上もの歴史を有し、鎌倉時代以降既に「祝い歌」として民衆の支持を得てきた歌謡が、「国旗と国歌の法制化」という形骸化したものとして現存する状態…これはアイヌ民謡と同じく危機的状況ではないだろうか。歌い手不在となって、伝承が途絶えた民謡は、消えてゆく運命にある。民謡が誕生した時の本来の目的・意義が消滅してしまい、伝統芸能化した現在にあっては、敢えて保存しない限り生き残り得ない。国歌として身近なものである「君が代」は興味の対象になり得るのでまだ良いが、比べてアイヌ民謡は非常に遠い存在である。刻々と伝承者が消えてゆく現在進行形の状態を真面目に考えないと、気付いた時には民謡の無い世界になってしまいそうである。

付記 (日本民謡協会参照)

●北海道・ソーラン節 北海道西北部沿海のにしん漁の際、沖で歌われる労作歌である。大きい船で獲った魚を、陸へ運搬する船にすくい上げる作業中に歌う。大変激しい労働なので、力強く、しかも威勢良く歌うのである。
江差追分 追分節には種々の伝説がある。信州浅間山麓の追分宿地方で歌っていた馬子歌を“信濃追分”と呼び、“越後追分”さらに北上して“酒田追分”“本荘追分”“秋田追分”等が生まれた。明治の初期、全国各地から北海道に渡った人が多く、越後出身者が追分節を広めたと言われている。
●青森・津軽じょんから節 慶長2年(1597年)に落城した城主の霊を慰めるために、家臣達が歌ったものだという。”じょんから”とは「上河原」という地名をいう。上河原に城主の墓地があり、同情と哀調を歌に作ったのが、始まりと言われている。
●秋田・秋田おばこ “おばこ”とは、未婚の若い娘のことをいう。今の山形県庄内地方で歌われていた「おばこ節」が、馬市(岩手県)に往復する人々によって、秋田県にも伝わった。
●岩手・南部牛追歌 南部(岩手県)は馬の産地として有名である。また、牧牛も盛んな土地である。重い荷物を遠くまで運ぶには牛のほうが良く、米俵・炭俵等が運ばれた。1人の牛追いが7,8頭の牛を追いながら、悠々と山坂を越えて、2日も3日も道中に野宿をしていったときに歌った。
●宮城・斉太郎節 南部生まれの斉太郎という人が、たたら踏みの歌を漁をする船をこぐときに歌ったものという説と、「さいたら節」とか「さいとく節」という祝い歌が今に伝わったとも言われている。
●山形・花笠音頭 花笠踊りの発祥地は、東・北村山地方と言われているが、紅花の主産地である尾花沢、寒河江との説もある。踊りのパレードは尾花沢からはじまり、毎年8月初旬には山形市を中心に各地で行われる。
●福島・会津磐梯山 明治の初年頃に新潟県から来た油をしぼる仕事をする人が、会津若松市のお寺の境内で歌い踊っていたのが起こりである。昭和22年から会津の盆踊りの手を入れ、現在も歌い踊り継がれている。
新潟・佐渡おけさ “佐渡おけさ”という呼称は、1924年(大正13年)からである。九州の「ハイヤ節」が北上し、佐渡で大きく開花し、現在日本国中知らないものはいない。佐渡の相川町地方に歌われた「相川おけさ」が、佐渡の”正調おけさ”として一般に普及した。
●栃木・日光和楽踊り 大正2年の夏、日光にみえていた天皇・皇后陛下に御覧頂くため、足尾の精銅所の従業員が、この地方に伝わる盆踊りを“日光和楽踊”と呼んでお見せしたのが始まりである。栃木県の代表的な歌として歌詞も整い、広く歌われている。
●茨城・磯節 那珂湊に所属する祝町遊廓のお座敷歌として歌われていたのが、たまたま大洗が海水浴場として開けたので東京人が多く訪れるようになり、安中という盲人がこの歌をよくし、横綱常陸山広く紹介したものといわれる。
●群馬・八木節 栃木、群馬、埼玉3県の境が寄り合ったあたりで歌われる盆踊歌である。かつては、馬子たちが宿場での休憩時に空だるの蓋を叩いて歌ったと言われている。
●埼玉・秩父音頭 別名「秩父豊年踊」とも呼んでいる。この歌の発祥は秩父郡皆野町(荒川上流)であったが、その後歌詞を募集し、今の秩父音頭になった。歌と共にその踊りも昭和初年頃からしっかり定着した。“日光和楽踊り”、“相馬盆歌”と共に代表的な盆踊歌として、全国にその名を知られるようになった。
●千葉・銚子大漁節 数え歌形式の大漁節が生まれたのは、元治元年の春である。その年鰯が大漁で銚子港は足の踏み場も無い程鰯で埋まった。その大漁を祝うために歌詞を作り作曲してお祭りをしたのが始まりである。
●東京・大島節 伊豆大島の代表的民謡。東京から110キロの太平洋上にある島の人達が、茶を作る時や茶摘の時に口ずさんでいたり、祭りの時に歌ったものである。大島の三原山が観光地として脚光を浴びるようになり、島の観光用の歌となった。
●神奈川・箱根馬子歌 箱根街道筋の馬子の道中歌で、「箱根八里は」の歌詞で有名である。「箱根御番所に荒井がなけりゃ」の荒井とは浜名湖のそばにあった関所で、「今切の渡」ともいっていた。
●山梨・武田節 この歌は新民謡であり、歌詞の2番に続いて、詩吟の部分が挿入されて歌舞を盛り上げている。
●長野・木曽節 御嶽山信仰から発生した。御嶽山登山口にある福島町で、登山やハイキングに訪れる人を対象に盆踊り大会を催し、全国的に知られるようになった。”御嶽山”という歌の節をそのまま歌いついできたものである 。
●富山・こきりこ節 富山県五箇山地方に伝わる神楽踊である。”こきりこ”とは23.3センチの乾燥した細竹で、これを打ってミハルスかカスタネットのような音を発して、拍子をとる手製楽器である。
●石川・山中節 北陸の名湯と言われる山中温泉で歌われている歌である。この地方にあった盆踊甚句形体の7・7・7・5調の3句目以下を繰り返すテンポの早い節回しの簡単なものであったが、元禄の頃から哀調を帯びた力まない伸びやかな歌になった。
●福井・三国節 三国神社を建立する際、地元の住職が地固めの人足音頭として作ったものである。三国港を中心に船人達に伝承され流行して行ったものの思われる。
●静岡・ちゃっきり節 昭和2年静岡鉄道が宣伝用に作った歌である。”蛙が啼くんで雨づらよ”と方言を取り入れ、郷土色を盛り上げている。“チャッキリ”は茶の芽を切るという意味ではなく、鉄バサミの音の擬音である。
●愛知・岡崎五万石 三河岡崎は、徳川家康生誕の地として格別注目され、江戸時代、岡崎は代々譜代の大名が藩主となった。五万石というと大名としては小藩であるが、格式高く、城下は常に繁栄した。曲調は”ヨイコノサンセ”という木遣り歌を応用したという説と、矢作川の船頭の船歌がその原調だと言う説がある。
●岐阜・郡上節 この歌は、盆踊歌であり、郡上踊り、郡上音頭ともいわれ、代々の郡上城主が民心融和の為に奨励したものが始まりと伝えられている。一節には「伊勢音頭」の変化したもの、また飛騨の「臼引き歌」がその原形だといった説がある。
●三重・伊勢音頭 伊勢神宮が江戸時代、一般庶民のお伊勢まいりとして熱狂的な人気があったことは明らかであるが、それだけに伊勢神宮を中心にして歌われた伊勢音頭も、実に広範にわたって愛唱された。全国的に広まったのは、木遣り歌を源調とする「ヤートコセー」囃子のものである。
●大阪・河内音頭 大阪府八尾市を中心とした河内地方の盆踊歌である。起源については、幾つかの説があるが定かではない。歌は、南、北、中河内で少しずつ異なるが、いずれも長文の口説で、野趣味のある熱っぽい歌と踊である。
●兵庫・デカンショ節 篠山節とも言う。土地の歌であるが発祥については諸説ある。丹波に行く酒造りの杜氏が、この地方の出身であることから「出稼ぎしよ」とする説や、この地方の方言の「でござんしょ」とするもの、またこの地の盆踊歌のはやしことばを元とする説などある。
●京都・福知山音頭 昔、明智光秀が丹波を平定したその居城から重臣のいる福知山城には、連絡のための馬を走らせた。歌詞は福知山から京都に向かった様子を歌っている。毎年の8月15日前後に行われる盆踊りで歌い踊られる。
●滋賀・淡海節 俗曲調のお座敷歌で、曲調は「名古屋甚句」から来ていると思われる。「淡海節」の名は、作者の志賀迺家淡海の名から来ている。
●奈良・吉野木挽歌 吉野川の上流は昔から吉野杉の産地として知られ、その木挽き業としては日本でも最も古いものとされる。そして木挽歌の発祥の地であるとされている。
●和歌山・串本節 串本港は、帆船時代、近海旅行の船の風待ち避難港として賑わった。江戸幕末頃、各地を回る人々が伝えた歌が串本に到着して、この節になった。毎年10月15日の祭りに、神輿の行列歌として歌われていたが、大正13年頃、レコードが出て全国的に普及した。
●鳥取・貝殻節 気高郡沿岸地帯に繁殖した帆立貝を採りに行く作業歌である。漁師は船でジョレンと呼ぶ漁具を網につけて海底をさらい、貝をひっかけ船に巻き上げる作業を繰り返す。その作業が大変辛いものであったので、歌詞にも歌われている潮の香をたたえた線の太い節まわしの中に、ほのかな哀愁もある。
●島根・安来節 出雲で”ハイヤ節”と共に日本の港町で歌われた”出雲節”が原調。”出雲節”は鳥取県の海岸部一帯と島根、岡山、広島の山間部、そして瀬戸内海の島々に今も残る”さんこ節”という歌から派生したとも言われる。
●岡山・下津井節 倉敷市の下津井港を誅しに歌われた座敷歌である。出所不明の流行歌の一種で、御手洗、下関、日本海側にも二、三歌われている。
●広島・三原ヤッサ節 三原市を中心に広く歌われる盆踊歌である。その原調は九州の”ハイヤ節”であるとされているが、土地の伝承によると、三原城の落城式に歌い踊った”阿波踊”から派生したものとも言われている。三味線、笛、太鼓、四ツ竹で極めて賑やかに歌い踊られる。 ●山口・男なら ご維新当時は「維新節」と呼び、大正初期頃は「長州音頭」ともいわれたが、第二次世界大戦中「男なら」と変わったものである。萩市を中心に県下全域で歌われる酒席での騒ぎ歌である。
●徳島・阿波よしこの節 徳島市を中心とする盆踊歌で、”阿波踊り”、”徳島盆踊り”とも言われる。全国の盆踊りの中で最も陽気なものである。天正15年(1587年)蜂須賀家政が阿波の国主になったときに、その祝いに人々が踊り始めた。踊りは毎年8月14日から3日間、徳島市中で盛大に行われる。
●香川・金毘羅船々 琴平町地方を中心に幕末から明治初年(1868年)にかけて、全国的に流行した。琴平町にある金刀比羅宮は、漁師や船乗りから海上守護の神として信仰され、全国に親しまれている。この歌は、神社にお参りのときの道中に歌われた。
●愛媛・伊予節 文化12年(1815年)江戸中村座で上演された長歌の中にあり、幕末期に全国的に歌われた流行歌である。原歌は伊勢参宮の名所を歌ったものであったが、この歌が流行する間に伊予名物の歌詞が作られ、この地方の歌として定着した。
●高知・よさこい節 高知県の代表的民謡であるが、その起源はいくつかの言い伝えがある。慶長年間(1596~1614年)高知城築城の現場で歌われた木遣り音頭の変化したもの。また、江戸時代の正徳年間(1711~1715年)から各地に流行した”江島節”が土佐に入って、盆踊り化したもの等々ある。
●福岡・黒田節 福岡の黒田藩の武士達が愛唱したと言われている。旋律は雅楽の越天楽(平調)から出ている。歌詞は殆ど黒田藩士の作である。元来、無伴奏の手拍子で斉唱する豪快な曲調である。
●佐賀・佐賀箪笥長持歌 祝儀歌として歌われ、花嫁の調度品を収めた長持を婚家へ運ぶ時に歌う民謡である。嫁入りの道具を受け渡すとき掛け合いでうたい、歌詞も多種で即興歌も多く、荷替歌ともいわれてきた。
●長崎・長崎ぶらぶら節 古い開港地としての長崎の、春の凧あげ、夏の精霊流し、秋のお諏訪のオクンチの三大行事の名物をうたっている。民謡的な土臭さの無いのが特徴である。
●熊本・五木の子守歌 昔、源平時代人吉市から、25キロぐらい遡った五木村で歌われていた子守歌である。子守歌には空想的歌詞や子守り自身の境遇をしみじみと歌ったものなど、人の心を打つものがある。昭和21年にレコードが出て、全国的に流行した。
●大分・大分地方の子守歌 宇目の歌喧嘩(守り子歌)。村の広場に集まった子守り達が2組に分かれて、「送り」「返し」と交互に歌を出し合い、歌につまった組が負けという遊び歌である。
●宮崎・刈干切歌 宮崎県の代表的民謡である。日向一円で歌われている。九州では日向に限らず、野山の広い地方では夏から秋にかけて、萓や小笹を刈り、乾燥させて冬季のまぐさ(馬の餌)にしたり、田植え前に田に入れて肥料にしたり、あるいは萓屋根を葺いたりする。萓や小笹を刈るときに歌う。
●鹿児島・鹿児島小原節 “オハラ節”とも言い、作業歌とも地搗歌とも言われている。発祥地は伊敷村原良で、”原良節”の曲名で鹿児島全域で歌われ、あとになって頭に「小」がついて”小原良節”となった。昭和8年頃レコードが出て、南国らしい明るい歌詞が全国的に流行した。 ●奄美・俊良主節 奄美大島の民謡としては最もよく知られた曲である。もともとは「船ぐら節」という恋歌の一つであったが、明治の頃地元選出の代議士基俊良の妻が、沖で貝取り中、潮にさらわれなくなられた事件があり、これをうたい込んでからは曲目も「俊良主節」と変わった。
●沖縄・てんさぐぬ花 わらべうたの1つである。琉球音階で旋律が美しい。”てんさぐぬ花”とは鳳仙花のことで、その赤い花びらの汁を爪先に染めて遊ぶように、親のいうことは心に染めよと言う教訓歌でもある。