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人形浄瑠璃

にんぎょうじょうるり(演劇・演芸)


[人形浄瑠璃]
「人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)」より「文楽(ぶんらく)」の方が身近な名称かもしれない。古来より人形浄瑠璃と呼ばれていたものが、植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)という人物が興行した人形浄瑠璃と、彼が上演する劇場「文楽座」が誕生した19世紀初め以降、文楽と呼ばれるようになり定着した。人形浄瑠璃とは要するに、浄瑠璃の語り・演奏に操り人形が融合して誕生した人形劇であり、人形浄瑠璃と呼ぶ方が内容を理解し易いように思われる。ただ人形劇と言っても物語の筋立ては歌舞伎同様、時代物(歴史物語)と世話物(義理人情)であり、最初から完全に大人を対象に考案された伝統舞台芸術である。現在では国の重要無形文化財の指定を受け、また2009年9月、UNESCO(ユネスコ)による第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財を保護・継承するため「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されるもので、リストに掲載された芸能は「無形文化遺産保護条約」の枠中に編入される仕組みである。日本では文楽・能楽・歌舞伎がリストアップされており、いずれも国際的知名度が高く、伝統芸能として高く評価されているものであるが、本項ではこの大人向け人形劇が何故これほど流行し、伝承され、芸術の域に達し得たのかを探るため、その起源から順に追ってみることにする。

人形浄瑠璃は、大夫(たゆう、浄瑠璃語り)・三味線弾き・人形遣いの「三業」で成り立っている三位一体の演芸であり、人形も一体につき三人掛かりで操られる。まずは「三業」を解体し、融合される以前の芸能の起源を追わねばならないだろう。各々の芸能の起源を年代順にすると、人形・大夫・三味線となるので、まずは人形遣いの起源から追ってみる。
人形(ひとかた)、形代(かたしろ)と呼ばれている、人の形に紙を切り、病・災厄・穢れを紙人形に移すという身代わり信仰が古くから存在したが、大元の母胎は、奈良時代(8世紀)に中国から伝来した「散楽」という芸能の中の、操り人形を使ったものと考えられている。平安時代の頃には「人形まわし」「傀儡(くぐつ)まわし」「木偶(でく)まわし」などと呼ばれ、漂泊の芸人・傀儡子(くぐつし)らが諸地方を巡廻興行し、社寺・宿駅の付近で生計を立てるため今様などを謡いながら人形劇を演じたが、徐々に定住を見せ、室町時代には兵庫県西宮市夷神社に雑用として奉仕しつつ芸能をする「夷(えびす)まわし」「夷(えびす)かき」と称される傀儡子舞が現れる。名の由来は、恵比寿神の神徳や縁起をテーマにしていたためとも、格好が七福神の恵比須様のようだからとも言われ、また江戸では「山猫」「山猫廻し」と呼ばれ、その様子から「首掛芝居」とも名が付いている。厳密に言うと夷まわし・山猫廻し・首掛芝居には違いがあるようだが、人形を操った芸能であることには違いがなく、これらの芸能が後の人形浄瑠璃のルーツになっていることも間違いないようだ。そうして江戸時代初期(17世紀)に、現在の人形浄瑠璃の演劇形態に近いものとして、それまでの人形劇と浄瑠璃が融合した芸能が出現したという。人形劇は猿楽などと同様、1400年にも及ぶ長い歴史を持ち、日本で愛好され、継承されてきたものなのである。

次に大夫(浄瑠璃語り)の起源を見てみよう。
古くからある声楽は「謡い物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」の2つに分けられ、そのうち語り物は、物語に節を付けて語り聞かせるものであり、最古のものは琵琶法師が琵琶の伴奏に合わせて平家物語を物語る「平曲(へいきょく)」だとされる。平曲は非常に流行し、徐々に題材を増やしてバラエティに富む語りになったが、特に人気を博したのは室町時代中期(15世紀末)の「浄瑠璃」であった。浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を題材とした御伽草子の一種「浄瑠璃姫十二段草子」から出たものであるが、曲節が愛好され、物語が違っても、その節回しは「浄瑠璃節」と呼ばれた。この頃は扇・鼓での拍子取りや、琵琶の伴奏で語られていたようであるが、この後の16世紀中期、三味線が誕生して流行すると、琵琶法師たちは琵琶から三味線に持ち替え、浄瑠璃に使用し定着するのだが、浄瑠璃語りを「○○大夫」という芸名で呼ぶようになったのは、三味線と結び付いてからのようである。流行音楽は大衆の耳に留まり易かったため、この浄瑠璃が人形劇の地の音楽として用いられたのは自然の流れであった。この「操り浄瑠璃(人形浄瑠璃)」の誕生が江戸時代初期のことであり、江戸中期になると大変盛んになり、数十もの流派が現れ、その中に語りの天才とも称される「竹本義太夫(たけもとぎだゆう、筑後掾・ちくごのじょう)」が現れた。大阪人形浄瑠璃の劇場として「竹本座」を起こし、戯曲作者「近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)」を座附作者として迎え、「曾根崎心中」などの名作を多く生みつつ絶大な人気を博した。浄瑠璃史上記念すべき1686年、「出世景淸」の竹本座上演を境に、浄瑠璃と言えば「義太夫節(ぎだゆうぶし)」と言われるほど一世を風靡し、それ以前の各派浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼ばれるようになったほどである。歌舞伎を凌ぐほどの人気を博し、また歌舞伎に与えた影響は大きく、歌舞伎演目の多くが人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を「丸本」と称したため、移入された歌舞伎演目を「丸本物(まるほんもの)」と呼んでいる。時代物と世話物という歌舞伎にも転用されている2つの分類体系も出来、その後「福内鬼外(ふくうちきがい、平賀源内)」が江戸で初めて人形浄瑠璃を上演して以来、「江戸浄瑠璃」が起こる。また19世紀後半、「文楽」の名の由来となった「文楽座」が人形浄瑠璃の中心的劇場であった時代、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、それから遅れて昭和期の1953年以降「太夫」としていた表記を「大夫」に改め、現在に至るわけだが、最高位の大夫「櫓下(やぐらした、紋下とも)」は、歌舞伎役者の第一人者・市川団十郎よりも芸事的地位は高いものとされる。最後の櫓下は、近代の名人と謳われ1967年に没した豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)で、人間国宝(重要無形文化財保持者)で文化功労者でもある。浄瑠璃語りが「太夫」から「大夫」となったのは彼の意図によるとされ、古典資料・故事の研究にも努力した人としても知られている。

次に三味線の歴史を追ってみる。
三味線(しゃみせん)と言えば江戸時代の町人文化が閃くほど、その関係は密接であり、当時の文化を代表する楽器である。確かに三味線の日本における歴史はそれほど古くなく、14世紀に入り中国から琉球(沖縄)に「三弦」が伝来し、織田信長の時代、琉球から「三線(さんしん、蛇皮線とも)」が本土・大坂堺に移入され、そこで改良されて16世紀中期に三味線が誕生した。更に海外での起源を遡ると、三弦の起源は中国北方のトルコ系遊牧民(キルギス)の古代弦楽器「火不思(クーブーズ)」だと言われ、中国・元代に三弦(唐三線)として漢民族の間に広まったという。
当時、平曲(へいきょく)を伝承していた当道座(とうどうざ)の盲人演奏家達(琵琶法師ら)は新しい楽器に飛びつき、琵琶を三味線に持ち替え、撥で弾く三味線を考案し、瞬く間に流行した。その最上位である検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)が、座敷で三味線を弾き語りし、研ぎ澄まされた聴覚により音曲が洗練され、芸術性が非常に高まり、繊細な音楽を作り上げた。三味線を浄瑠璃に用いるようになったのは「沢住検校(さわずみけんぎょう)」が最初ともいわれ、爪弾きでなく撥を使ったため技法・奏法が飛躍的に進歩し、浄瑠璃は音楽的にも大きく発展したという。三味線は短期間のうちに発達し、非常に技巧を要するものとなった訳だが、海外でも三味線同様「リュート」に属する楽器は古くから数多く存在しており、各々独自の発展をしつつ、各国の文化を支えている。

次に、人形劇と浄瑠璃が融合し、義太夫節が誕生した後の人形浄瑠璃から、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、現代に至るまでの歴史を追ってみることにする。
近松門左衛門や竹本義太夫が世に出る17世紀半ば頃、人気のあった人形浄瑠璃・歌舞伎のために常設小屋が多く設置されたが、人形浄瑠璃の人形は当時「一人遣い」であり、複雑な動きが無いものだった。その頃から次第に顔の細部・手足まで複雑な動きを持つようになり、1734年に「三人遣い」が始まると人形も大きくなり、現在の人形・人形遣いの形態がほぼ完成し、18世紀半ば頃までに独自の舞台様式を確立した。しかし歌舞伎人気に火がつき人形浄瑠璃は翳りを見せるのだが、18世紀末~19世紀初頭(寛政年間)、前述した初世・植村文楽軒が大阪に人形浄瑠璃の座を再興させた。1872年、3世・植村文楽軒(文楽翁)がこれを移転させ「文楽座」と名付け、後の明治末期まで文楽座のみが人形浄瑠璃専門の劇場であったため、人形浄瑠璃は「文楽」と呼ばれて親しまれ、また文楽座は文楽の中心的存在として君臨した。1909年、松竹が文楽座の経営・興行を行うこととなり再度移転となるのだが、当時は地の利を生かす為、政策的に度々移転が行われ、新築・移転・復興などを繰り返していた。1949年、松竹との待遇改善を巡って因会・三和会に分裂し、内紛もあり興行低迷期にあったのだが、1963年には因会・三和会両者が合同し財団法人文楽協会が発足、松竹が撤退して経営は国・公共団体・大型メディア企業の後援を受け、文楽界は統一された。1984年、大阪に国立文楽劇場が完成し、それまで文楽興行を行ってきた朝日座(旧文楽座)の歴史は幕を閉じたのだが、今日では国立文楽劇場以外でも一座が東京・地方劇場で公演を行っている。かつて六幕建てで一日掛かりであった公演も、二・三幕建てに短縮されるなど興行に係る全てが整備され、1955年には国の重要無形文化財の指定を受けている。幅広い大衆により理解を促すため、劇場での実演は録画され、興行数は増され、また「重要無形文化財保持者(人間国宝)」として演者の公的認定も進められ、今のところ深刻な消滅の危機は無いという。一時は他の伝統芸能同様、人材(後継者)不足に悩まされたものの、1973年に研修生制度が作られて以来、家柄などに関係なく若者が文楽に携わることが可能になり、新しい世代の演者の養成に努めることが出来たことは文楽にとって非常に幸運であり、また途切れてもすぐ復興し、中絶することなく文楽興行が続けられたのも、観衆の人気を得続け、また経営においても大きな後ろ盾を得て行われた賜物とも言える。芸事に携わる人にとって経営・興行企画などに労力と時間を費やし、本業である技能鍛錬に専念できないというのは大変残念なことに思う。
江戸時代には約700余りあった人形浄瑠璃の演目のうち、現在約160演目が継承されているが、上述のようにしっかりとした土台がある上、大衆的舞台芸術として完成度の高さと魅力を保っているため、現在の姿が欠けることなく伝承され続けて欲しいと思う。

ここまで歴史を振り返ってきたので、次に人形浄瑠璃という芸能の概要に入りたい。まず前述した三業について触れてゆくことにする。
人形浄瑠璃が、古来より男性のみによって培われてきたものであるのは歌舞伎や能楽と同じである。舞台上では、大夫一人が全ての役を演じ分け、義太夫節の語りにより物語が展開し、三味線が舞台の進行役として大夫と人形遣いに合図を送りつつ、大夫と共に情景や心情を表し、基本的に人形遣いが3人で1体の人形を操ることで成り立っている。大夫と三味線弾きが演ずる場所を「床」と呼ぶのだが、円形で回転式になっているため「文楽廻し」とも呼ばれているのだが、衝立の裏に二人が座して準備し、回転させると舞台に現れる仕組みとなっている。大夫の手前には、大夫自身が書き写した「床本(ゆかほん、浄瑠璃台本)」が「見台」に置かれ、大夫がこれを恭しく頂いて語り始める。大夫は、老若男女・士農工商を問わず全ての登場人物の台詞に加え、場面の情景・事件の背景説明・心情などを独りで語り分け、長いもので一時間半余り(長い作品は別の大夫と交代で務め、掛け合いの場合は複数が並ぶ)、登場人物は多くて十数人になる。義太夫節を大別すると、三味線無しで会話を表す「詞(ことば)」、三味線を付して情景描写する「地合(じあい)」、三味線と共に唄う「節(ふし)」となり、3つが混然一体となり物語が表現される。義太夫節は、上方(京阪神)で生まれ育ったものであるため関西訛りで語られ、その語り・演奏は、初めて接する人には誇張された、おおげさな感じを受けるかもしれないのだが、それは義太夫節独特の表現法で、各登場人物の性格・心情の機微を語り分けるための手段であり、見る者に強く印象付けるものである。古めかしい昔話が題材であったとしても心の描写が主眼にあるため、年代を問わず共感を呼び、幅広い世代に愛好されている。

三味線は、義太夫節には「太棹(ふとざお)」という、その名のとおり棹や糸も太く、胴や撥、音も大きい三味線が用いられ、重厚で力強く響きのある音色で、人間の感情をストレートに表現する。「日本舞踊-歌舞伎」「日本舞踊-歌舞伎舞踊」も参照していただけると三味線の違いが分かるかと思う。大夫の語りにおいて音楽性より物語の内容表現に重点が置かれるのと同様、三味線もまた大夫の語りの助けとなるべく、曲の心・人間心情を表現することが大切とされ、三味線と大夫とが一心同体となるのが理想と言われている。回転床になっている「文楽廻し」に乗り、大夫と共に正座で舞台に現れ、隣の大夫と呼吸を合わせて2人で舞台を作る。基本は2人だが、三味線方として複数人数が舞台に上がり、他の楽器を担当することもある。「細棹(三味線)」数挺が、高音で立ち回りなど複数の登場人物の様子を描写したり、余情ある情景の描写や登場人物が琴を奏でる時に「琴」が用いられたり、また「胡弓 (こきゅう)」が切ない場面で用いられたりする。三味線方以外に、歌舞伎と同じく御簾(みす)の内で下座音楽(囃子・鳴物)を担当する「御簾内(みすうち)」と呼ばれるものがあるが、これも舞台構成上大切な要素となっている。

文楽人形の最大の特徴は、一体の人形を3人で操るという世界的に見ても独特な様式にある。人形遣いは黒衣姿で、一体3人の役割分担を見ると、頭・首(胴)と右手を担当する「主遣い(おもづかい)」、左手担当の「左遣い」、両足担当の「足遣い」に分かれている。左手で人形の首の胴串を握り、等身大に近い背丈の、10キロ以上の人形を片手で支えつつ、人形の背骨となって全身を操る主遣いが最も重要であり、重要な場面では特に主遣いだけ顔を晒し、紋付袴で操る「出遣い(でづかい)」と呼ばれるものがある。この顔見せは観客に対するサービスの類で、更に派手な演出の際には肩衣を着る場合もある。主遣いは、3人の呼吸を合わせ三位一体となり、人形を生きているかのようにリアルに演出するために、「頭(ず)」と呼ばれる合図を出している。「頭」は音声を用いず、主遣いの操る人形の動きの中に表され、左遣いと足遣いは常に人形の首周辺に注目し、頭を察知するのだが、人形の動きには一定の様式があり、その流れを完全に理解した上で、次を予測しながら操るものだという。人形遣いの修業は、足遣い、左遣い、主遣いの順で始められ、その鍛錬は「足十年、左十年」「主遣い」を務めるには40年かかる、と言われるほど長く厳しい修練を要する。中腰を強いられる足遣いの姿勢が楽になるよう、主遣いだけは高く作られた特殊な「舞台下駄」を履き、人形遣いの配役は都合で変わるので、誰とでも呼吸が合うように鍛錬を要するという。人形遣いの職掌はなかなか想像・理解し難いので、人形について触れてみることにする。

人形の構造は実に簡単に出来ており、首(かしら)の下に胴串が付き、それを一本の肩板の穴に十字に通し、肩板から紐で手足がぶら下がっているだけの檜製の人形である。基本的に女の人形は足が無いのだが、足遣いが自分の手の関節や衣裳の動きを使い、足があるかのように見せている。人形の顔の表情は主遣いの担当であり、「仕掛け」「うなづき糸」などにより表情を豊かにするよう工夫され、また人形の左手には長い針金状の「さし金」が付けられ、左遣いによる綿密な動作の手助けとなるよう工夫が施されている。人形の衣裳は公演のたびに着せ替えられ、首と別々に保管されるため、人形遣いは自分が遣う人形に衣裳を着ける「人形拵え(にんぎょうこしらえ)」を要する。文楽人形の衣裳は人間用の呉服がそのまま使えぬため、染め・刺繍は特注で作られ、国立文楽劇場の衣裳部屋の倉庫に整頓され保管されている。衣裳部屋の一角に裁縫所が設けてあり、公演の配役決定後、倉庫から帯・襦袢・衿・上衣裳など必要な衣裳全部をまとめて選び出し、専任の縫い子が公演の前に首と衣裳を合わせ、後でばらす作業を行う。縫い子は衣裳の修繕・洗濯・新調などの管理全般の役目も負っている。基本となる人形の首は50種余りしかなく、肌の色を塗り替えたり、床山(髪結い)・鬘(かつら)担当者が、老若男女約120種類の基本型となる鬘と部分鬘を組み合わせて多彩な人物に作り替えるという。文楽人形の髪型は、千種類余りある部分鬘から、役に合う鬘を選び出して合わせる作業「鬘割り」が最も難しく、床山は首を汚さぬよう、ほぼ水で整形しながら役に合った形に結い上げる「結髪(けっぱつ)」という作業を要し、公演時には毎度整髪作業を行っている。銅板に植毛して鬘を作る技術も必要となる。唯一、名越昭司氏が文楽の床山師として無形文化財選定保存技術保持者の認定を受けており、現在のところ、ほぼ一手に床山を引き受けているというが、1公演で50~80個余りの首が必要だというから大変な作業である。

印象的・個性的な表情を持つ文楽人形は、熟練の人形作者により丹念に手作りされ、その衣裳もまたリアルに見えるように柄・模様等を人形のサイズに合わせて特注し、人間の呉服と同じ素材で作られる。人形・衣裳の美術的・技巧的な素晴らしさと、人形遣いの鍛錬の上にある高度な技術とが相まって調和し、格調高く、希有な伝統芸能に昇華させているといえる。

次に舞台構造と、舞台に要する道具類について触れる。
江戸時代より人形が工夫され、仕掛も進化すると、舞台機構も次第に進化して複雑になり、現在の文楽の舞台である「国立文楽劇場」の舞台様式として完成した。客席に最も近い上手(右)の位置に、大夫と三味線が位置する「床」が設けられ、人形が演じられる舞台は中央に位置する。舞台下部の大道具で、人形にとっての地面・床・海面となり、瞬時に変わる変幻自在な前景「手摺り(てすり)」、野山など風景を描いた舞台背景画「遠見(とおみ)」、舞台屋根部分にあり、風景や街並みを描き雰囲気を盛上げる「美術」などが客席から見える舞台装飾である。「手摺り」は人形遣いの下半身を隠すため50センチ余りの高さがあるが、観客の目線も上がってしまうため、舞台の床を掘り下げて「舟底(ふなぞこ)」にする。人形遣い等黒衣にとっては賞味85センチ程度の高さまで舞台空間が拡充され、遠近感を出したり、黒衣が控えたりする。公演に必要な大道具類(舞台装飾)は全て、舞台稽古の前に「道具調べ」として人形遣い立会いの下でチェックが行われるという。
「御簾内(みすうち)」という舞台2階の左右にある簾の掛かった場所は、前述したが囃子方・鳴り物方が音楽・効果音を担当し、通常姿は見えない。舞台両端の御簾内の下にある「小幕(こまく)」は、竹本義太夫と豊竹若大夫の2つの紋を染め抜いた黒幕で、人形・人形遣い(黒衣)が舞台に出入りする場所である。幕の開閉は若手人形遣いの役目で、舞台で演じられている演目の間を掴む修行にもなっている。
次に小道具だが、人形に合わせて7割程度に縮小された日用品の数々が、数万点余り数カ所の倉庫に眠っている。キツネ・犬など動物の類、人形の手に持たせる「持道具(もちどうぐ)」、家具など舞台に設置する「出道具(でどうぐ)」、手紙など公演毎に破ったり捨てられたりする類の「消え物」など、様々である。公演前に選び出した小道具類は、舞台裏にある棚に整理して保管され、公演中は黒衣姿の若手人形遣いが、棚から舞台にいる左遣いまで小道具を運ぶ。
目に見える舞台の要素を挙げてきたが、華やかな表舞台の円滑な遂行とその成功に欠かせないのが黒衣達の存在である。「文楽廻し」一つとっても自動回転式ではないので黒衣達が裏で働いており、彼らは「床世話(ゆかせわ)」と呼ばれ、公演中、演目ごとに文楽廻しを回転させ、太夫と三味線方の座布団・白湯の準備をしたり、地方公演の時には荷物の運送を担当したりする。

最後になるが人形浄瑠璃文楽の演目について少し触れることにする。歌舞伎演目と関わりが深いことは前に述べたが、大別すると「時代物(じだいもの)」「世話物(せわもの)」「景事(けいごと)」に分けられる。
歴史的物語である時代物と、当時の義理人情などの人間心情を描いた世話物という2つの分類については歌舞伎と同様で、登場人物の身分階級での分類によると、公家や武家階級(社会)を描き、歴史的事実を演劇化したのが「時代物」、現代のテレビドラマのような当時の江戸の市井の風俗、町人社会を描写したのが「世話物」とされる。「景事」は、能・狂言・歌舞伎・人形浄瑠璃本体などから取材・独立した音楽・舞踊的要素が強い演目で、歌舞伎の「所作事(舞踊物)」に近い類である。
演目のうちでも「大曲」「難曲」とされる「仮名手本忠臣蔵-山科閑居」は神格化された演目であり「櫓下(やぐらした)」「紋下」という大夫・三味線・人形遣いの最高位である頭領格・一座の代表者が代々勤めるものであった。どう演出するか先人の口伝も残され、大半の大夫はこの演目を遣らずに終えてしまうものだという。最後の櫓下・豊竹山城少掾が1967年に没後、現在は櫓下不在の状態である。

総論
歌舞伎に触れてみて、更に深淵を覗いて見たいという人が文楽を鑑賞すると聞くのだが、歌舞伎と文楽どちらが理解し易いかと言えば、もしかすると人形劇である文楽の方かもしれない。文楽は大衆娯楽として歌舞伎と並行して育まれてきた経緯から、能楽ほど敷居が高いイメージは無いのだが、歌舞伎公演は東京・歌舞伎座をはじめ各地で行われるのに対し、文楽公演は大阪・国立文楽劇場が中心であることなどが、文楽初心者の始めの一歩に繋がり難い要因の一つなのかもしれない。他の伝統芸能でも触れてきたが、こうした無形文化(伝統芸能)の継承には、これを理解し、支える立場にある大衆(観衆)が絶対不可欠であり、次世代へ繋いでゆく我々世代の責務であるように思う。芝居などの寺社巡業が一般的に行われていない昨今において、一歩を踏み出さぬ限り、一生触れずに終わる日本の伝統文化が沢山ある。日本人としての道徳や美徳が叫ばれている今日、日本人のルーツを再確認するためにも、今一歩を踏み出すのも一考かと思う。



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