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太神楽・曲独楽

だいかぐら・きょくごま(演劇・演芸)


[太神楽・曲独楽]
「太神楽・大神楽(だいかぐら)」、耳慣れない語と思われるが、傘回しなどの曲芸をTVなどを通じて世に広めた海老一染之助・染太郎兄弟の曲芸師コンビが有名で、正月のテレビ番組などで馴染みがあるかも知れない。江戸時代、寄席の登場に伴い、従来の太神楽芸である「放下(ほうか、曲芸の一種)」が神事芸から舞台芸能としての曲芸に移り、大衆の人気を博した。一方で従来の祭事的な太神楽は獅子神楽のジャンルに入り、神官が「獅子舞」と「放下」を伴い、全国各地を年に一度巡回し、神札の配布や祝祷、御祓(おはらい)を行うもので、当時参拝できない人にとって伊勢参拝の代わりとされた。現在では舞・歌・囃子・茶番・寸劇・曲芸など民俗芸能の集大成とも言える総合芸能となり、継承されている。
日本舞踊「神楽」の項でも触れている「太神楽」だが、種類が豊富で多岐に渡る上、知名度が高いものが多いので、本項では太神楽について更に詳細に触れてみることにし、曲独楽は太神楽との接点を見た後に採り上げることにする。まず太神楽の起源と、その歴史の流れに沿って触れてみることにする。

太神楽の起源は、奈良時代(710~794年)、中国から伎楽(ぎがく)・散楽(さんがく)などが仏教とともに日本に伝来し、法隆寺・東大寺・西大寺・大安寺など由緒ある神社に上演する一団が置かれた。これらは後に雅楽・猿楽・田楽などに変化し、更に後には能楽に発展してゆくのだが、平安時代には、散楽の一部は僧体の放下師が仏教の伝播のため人集めとして放下芸を演じ、娯楽として民衆の目に触れ、一般大衆向けの曲芸を生んだ。放下は祭事の余興としての位置付けが強いが、芸を見て楽しむことで厄落とし(憂晴らしとも言える)になるともいわれる。元来は神事的意味合いが濃かったものも、より大衆向けの芸能として、人々の娯楽として発展し多様化し、総合芸能にまで発展していったとされる。
伊勢・熱田両神宮の太神楽が古くから有名で、その起源は定かではないが、この2ヶ所が現在の太神楽の発祥源ともいわれている。日本舞踊「神楽」の獅子舞のところで触れたように、江戸時代に入り全国巡回がメジャーなものとなり、中でも神事舞(獅子舞)と放下(曲芸)が大衆の人気を博した。太神楽一行は昔は徒歩で荷車を曳きつつ1日平均8時間程度かけて150軒余りを廻りつつ15キロ程度進行するといった具合に年中旅路にあり、本拠地に戻るのは次の旅支度の時という生活をしていたようだ。ワゴン車等で都市化が進んだ道を移動する現在では、逆に僻地ゆえに訪れることが出来なくなった土地も出てきたという。話は戻るが、熱田派は江戸太神楽・水戸大神楽となり、伊勢派は伊勢大神楽(伊勢大神楽講社)となり、この3つが特に有名であり、それぞれ社中(組合・組織)を設け現在も活動している。この3つの太神楽の流れを追いつつ、現在までの歴史を探ってみることにする。

「伊勢大神楽」は、三重県桑名市太夫を本拠地とし、宗教法人伊勢大神楽講社という組織のもと、現在も主に西日本を中心に各地を巡回している。厳密には太夫村系と阿倉川系があるのだが、合同で活動しており芸風の違いはない。概ね舞(獅子舞)と曲(放下芸)という、古来の太神楽の流れをそのまま伝え、1981年には国の重要無形民俗文化財に指定された。獅子舞の合間に、放下芸師とチャリ師(道化師)が万歳のように掛け合いながら芸を披露する曲が散りばめられる。現在も頭噛みのお祓い(獅子頭に頭を噛まれると頭が良くなる・無病息災の願掛け)に人気がある。なお講社へ加入している大神楽組は、最盛期には太夫地区だけで12組余りあったようだが、現在は全国でも4組程度となり、一方で講社に属さぬ伊勢大神楽も少数ながら存在し、各組で修行した者が、講社に属さず名乗りを上げて独立し、巡業しているものである。
舞(獅子舞)が8種、曲(放下)が9種余りあり、舞は神楽を奉納する場を清め、神を下ろし、邪気を払い、五穀豊穣等を祈願する内容であり、曲はバイ(木棒)操り・手毬操り、傘回し、茶碗つぎ(献灯)、剣舞、魁曲(花魁道中の曲)など、様々な演目を有する。

「江戸太神楽」は、江戸時代の寛文年間に熱田神宮の神官らが江戸にも巡回して評価を得、江戸へ移り住んだのが最初であり、今日の関東系太神楽の母胎として、関東に広く分布した。伊勢派も20年余り遅れて江戸に移り、全盛期の江戸の太神楽は、熱田派・伊勢派各々同数とされ、山王・神田明神・根津権現祭礼での御用神楽として先払いの役を勤め、その華麗な芸風は江戸の風物詩となった。赤丸一・白丸一・翁家・湊家・宝家・大丸・丸井・海老一・寿家・バンカラ・豊来家などの屋号の親方連が昭和初期までは存在しており、派を競い合っていたという。後に急増した寄席の芸人不足を補うため、太神楽が寄席に進出し、太神楽の演目の大半が寄席に吸収され、寄席の色物(脇芸)として定着した。
太神楽十三番と呼ばれる演目が定番で、他流派よりも曲芸は多彩である。9番までは曲撥・曲鞠・傘回し・羽子板・どんつく・茶碗などの放下芸、残る4番は祭事的内容で、祝寿獅子舞・磐戸開きの舞・鹿島事触の舞・末広一万燈である。
昭和14年(1939年)、寄席などの舞台に立つ事業太神楽師らが「大日本太神楽曲芸協会」を設立し、一時は会員も140名余りいたのだが、会員の高齢化が進み、現在は30名余りとなり、慢性的な後継者不足の状態が続いているという。現在、日本芸術文化振興会(国立劇場)が太神楽の後継者育成事業に乗り出し、研修員を募って基礎教育をしている。

「水戸大神楽」は、江戸初期に常陸国足黒村(現茨城県茨城町)に土着した神楽師・宮内丹後守を祖とし、水戸御免御祭礼御用囃子(略称・御祭礼囃子)が当時の祭囃子のまま現在も継承されており、他流派より格式を重んじた芸風となっている。江戸太神楽と同じ熱田派の流れを持ち、江戸時代には水戸藩徳川家の御祭禮御用を努めた。当時、大神楽の巡廻地は三里四方が一切興行禁止となり、大神楽出向の村は、農業禁止のうえ、庄屋が紋付羽織袴で出迎えをし、鎮守様に神楽を奉納し、庄屋宅の悪魔祓いをしてから村内を廻ったという。昔から江戸太神楽との関係は深く、相互に技芸を磨き合っていたようだ。
水戸大神楽は、平成6年(1994)に文化庁芸術祭参加公演「芸術祭賞」を受賞した。(十八代宗家・家元 柳貴家正楽)
曲芸の多い江戸太神楽に対し、舞曲が中心で演目も多いのは、御祓いが主眼とされたことも影響しているようだ。舞の内容としては他流にはない鍾馗(しょうき)舞があったり、神話を題材とした神楽歌が入るのが特徴である。曲芸も同様に、御祓いに纏わるものが多く、悪魔祓いの刀・破魔弓・出刃包丁・火炎や松明などを用いる演目が多い。また滑稽掛合という、漫才に近いものも披露される。

いずれの流派とも高齢化が進み慢性的な後継者不足の状態だが、明治時代以降、海外での活躍などにより、欧米のジャグリングとの曲芸文化の交流をしたため、放下に関してはジャグリングとの接点も多く若者にも馴染み易いものとなった。先にも述べたが、平成に入り、国立太神楽研修生として後継者の育成が始まり、伝統芸能としての太神楽を後世へ保存・継承しようとする動きが高まっているという。

ここで太神楽の名前の起源について少し触れておくことにする。上述の伊勢大神楽・江戸太神楽・水戸大神楽の「太」「大」の違いは各々の組織の固有名詞であり、漢字の相違による内容的差異は無く、歴史的には江戸時代の記述などでは、「大・太・代」が混交して用いられている。神宮への代わりの参拝から「代神楽」、「大神宮御神楽」の中三字を省略して「大神楽」、伊勢参宮の大規模な神楽奉納と同じご利益を得られるから「大神楽」、美称の「太」を用いて「太神楽」など、伝統文化研究の専門家のうちでも諸説唱えられ、どれが正式名称と決められたものは無いという。神宮と各地を連結する立場にあり、代参としての位置付けで親しまれ、全国規模で信仰が広がっていたため、地域による表記の差異があっても不思議は無いのかもしれない。

次に、曲独楽(きょくごま)の流れに入ることにする。寄席演芸では、曲独楽は色物の1つとして、太神楽芸の1つとして一般に扱われてきた流れもあって、実は起源から追うと、蹴鞠などと同様、貴族遊びの1つであったことはあまり知られていない。

独楽は誰もが知っているように、子供の昔ながらの玩具として現在も使用されている日常的なものであるが、その起源は明らかになっていない。そもそも自然物の組み合わせで作られるような単純な玩具としての独楽の類は、世界中どこにでも見られるため、史跡・史書などから起源を追うのは無理があるのではないかという説もある。要するに、独楽はある一地点が起源で世界中に伝播したものではなく、自然発生的に各地で出現したもの、との考え方である。いずれにしろ証拠となる現存の最古の独楽は、削って形を整えていく「たたきごま」であり、紀元前1400年~2000年頃のものがエジプトで発掘されたという。
では日本での起源はと言えば、こちらも明らかではなく朝鮮・中国大陸・日本発生説など諸説あるが、史実から追うと奈良時代に中国から「散楽雑技」の1つとして竹製の唐ごまである「輪鼓(りゅうご)」が伝来したという説が有力となっている。「曲独楽(曲芸として大衆に披露する独楽)」の歴史としては、奈良時代に宮中の神仏会や相撲節の余興に遊戯として廻し、競い合ったというのが最初とするのが妥当かもしれない。現在でも「伊勢大神楽」などの曲芸の中に、昔の姿がそのまま踏襲されている。古来より、曲独楽は朝廷や寺社の儀式でのみ演じられ、貴族階級の子供の玩具となり、一般大衆は目にすることが出来ず、大衆は木・貝など自然物の独楽で遊び(賭博・占卜)をしていたという。
一般庶民の見世物として曲独楽興行が行われるのは江戸・元禄年間に入ってからの事で、福岡・博多で専用の曲独楽が初めて作られ、博多出身の初太郎(市太郎)という少年が、鉄芯の博多曲独楽を京都の四条河原(当時、見世物小屋がたくさん並んでいた)で120日興行し評判になったというのが史実での初見である。博多独楽は伝統芸能として初代筑紫珠楽によって復興され、昭和に入り福岡県の無形文化財に指定された日本の代表的な曲独楽であるが、それまでの独楽と比べて長時間安定して回ることが、曲独楽に多くの演出を誕生させ、曲芸として発展するきっかけになった。
話が逸れたが、江戸へ伝わり、享保年間(1716年~1735年)から幕末まで曲独楽は大流行し、曲独楽だけで見物人が飽きないよう、からくり人形・水からくりを取り入れ、音曲入りの興業を行うなど賑やかな演出が考案され、庶民の人気を博した。文化文政期(1804年~1830年)に独楽が盛んに作られるようになり、技術的にも大成した曲独楽は見世物興行化に成功し、1840年代から1860年頃に全盛期を迎え、曲独楽の演技だけでなく仕掛け・手品・音曲を用い、劇的要素も加味した内容となり完成した。
曲独楽の芸人達に役所から鑑札が下りたのは、大岡越前守忠相が東京・浅草田原町の曲独楽師「松井源水」を香具師の元締めとしたことによるが、そのお蔭で芸人達の芸の記述・跡取り報告などの詳細を現在も見ることができ、当時の曲独楽師は、紐とともに30キロ弱の重さの大独楽を廻したという記録も残っている。松井源水は「源水独楽」という形・呼び名を現在に残した著名な人物で、現在の曲独楽師は皆、源水の芸脈を受け継いでいる。当時名高い曲独楽師に2代目竹沢藤治、13代目松井源水がおり、1866年、源水一行は日本で初めて海外興行をし、曲独楽を初めて海外に紹介した人物である。
享保年間の浅草・奥山の名物芸というと、第一に「松井源水の曲独楽」、第二に「長井兵助の居合抜き」・「芥子之助の曲芸・手品」と言われていたらしい。人気の大道芸の1つであった「曲独楽」も、明治以降は太神楽社中と共に全国を巡回し、舞台・寄席芸能として現在でも人気の曲芸として伝承されている。しかし、今日では曲独楽師は国内に十数人しか居なくなり、また曲独楽製作者も、後継者不在となり芸道の危機に瀕している。江戸独楽は、現在もその美しい姿から、コレクターの中では非常に人気が高い独楽であるが、明治時代以降は独楽文化が廃れてしまい、曲独楽の伝統的技術は、僅かな職人の手で現在まで細々と継承されている状態となっている。

最後に、曲独楽の主要な演目について少し触れておくことにする。仕掛けも技術も必要なものばかりだが、素人目にはどこから技術でどこまで仕掛けなのか全く解らない。

「刃渡り」  日本刀の刃の上を端から端まで渡るように廻っている独楽を移動させる。
「糸渡り」  刃渡りの糸版。舞台の端から端まで糸を張り、綱渡りするように廻っている独楽を走らせる。
「地紙止(末広)」  演者が手に持った開いた扇子の縁の上で独楽を廻し、移動させる。
「風車」  棒(竿)の先端で廻っている大独楽を直角まで倒していく。
「衣紋(えもん)流し」  演者の着物の袖の上を渡るように廻っている独楽を移動させる。

昨今では、独楽の名で親しまれていないが、ラバー素材のお碗が2個くっついたような形の「ディアボロ」というものが欧米を含め日本でも流行しているようだ。これは「輪鼓(りゅうご)こま」という長崎に伝わる空中ごまの仲間で、箸のような2本の棒に付いた紐を操って独楽を廻し、空中に飛ばしたり、紐を登ったりさせる類である。起源は中国と言われ、日本には奈良時代に中国大陸から伝播し、鎌倉時代には子供の玩具として大衆化していたが、江戸時代にはあまり遊ばれなくなり、廃れてしまった。その独楽が現在また流行しているのだから、また喧嘩独楽やベー独楽が流行る日が来るかもしれない。

総論
本項の太神楽と曲独楽は、いずれも人々を楽しませる日本の伝統芸能として江戸期の庶民に愛され、現在まで継承されてきたものである。今更ながら振り返ると、現存するいずれの伝統芸能も江戸期の大成がキーワードとなっている。猿から進化しヒトになったとされる我々も長い目で見れば、江戸期以降は大きな変化のない環境に生きていると言えるのかも知れない。娯楽を楽しむという生活の一場面が、どれほど人間にとって大切なものかを考えさせられるのだが、昨今では太神楽芸も曲独楽も後継者問題に直面しているというのは、やはりこれらの芸能が大衆の娯楽の一部では無くなり、身近なものでは無くなってしまった証拠と言えるかもしれない。
上述したが、曲独楽製作者が居なくなれば、曲独楽師は存続できなくなる。そして何より観衆が居なくなれば、曲独楽は消えてしまう。それまで芸能を支えてきた環境が変わってしまった今、太神楽が研修制度を始めた様に、別の生き残る道を模索しなければならない岐路にあり、曲独楽を二度と目にすることができなくなる日もそう遠くないかもしれない、と思うのは悲しいものである。



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