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長歌・旋頭歌・片歌

ちょうか・せどうか・へんか(和歌・俳諧)


[長歌・旋頭歌・片歌]
標記の「長歌・旋頭歌・片歌」は、古の日本において、言葉よりも的確に心情を表現できる手段として日常的に用いられていたものだというので、どちらかと言えば歌謡に近い。人間はその遺伝子のどこかに、歌や踊を愛好し、代々行ってきたという記憶を眠らせているのかも知れない。鼻歌のように口から流れ出てくる言葉や旋律に、深い意味はないのかもしれないが、その表現方法から人間の文化的行動の発達の流れが見えてくるように思う。現在の歌謡曲にも5・7句で4拍子の構成のものが多いのは、日本人の体内に刻まれたリズムのせいかもしれないし、また日本の歌謡にはしっくり合うから不思議なものである。
本項では、その歴史を追いながら、上代歌謡の栄枯盛衰と社会的背景を探ってみようと思う。

まずは、簡単に和歌について触れ、そのイメージを膨らませてみることにする。
日本固有の詩歌である「和歌(わか)」は、長歌・短歌・旋頭歌・片歌などの総称であり、「やまとうた」とも呼ばれているが、数ある中でも狭義には「短歌」のことを指す。短歌以外の和歌は、歴史的にも早い時期に衰退してしまうのだが、万葉集の頃を最盛期として上代から日本で詠まれていた定型歌形式のもの、と定義付けられている。
中でも「長歌」は、その消えていった和歌の1つであり、簡単に言い表すなら、4分の4拍子に合わせて5・7・5・7音の句が続き、最後が7・7音の句で終わるものである。5音7音の句を3つ以上繰り返し、最後7音で締める構成以外には何の制約もないという。短歌と長歌、どちらが先に誕生したかは定かではないが、いずれも母胎は古代歌謡(上代歌謡)にあるとされているので、この辺りを始点として流れを追ってみたいと思う。

まず歌は、各地で自然発生したであろうことは、常識的に考えれば想像できる範囲のものである。日常生活の中での雑然とした言葉をリズムに乗せることで、言葉を非日常的な、神の世界との交信を可能にすることができると考えた。発した言葉が物事の吉凶を左右するという思想、祝詞や忌み名などの思想は現在の日本でも見られる。言葉に宿る霊的な力を信仰する「言霊思想(ことだましそう)」を基に、文字の発生以前から古代人は歌にして心情を表現し、自分の意志を声に出し表明する「言挙げ(ことあげ)」が行われ、それが口伝・口承されてきた。日本各地に伝承された歌・舞を「風俗歌舞」と呼び、希少ながら現在にも伝えられている。これらの発生時期は定かではないが、上代歌謡の源流となり、繋がっていったと考えられている。日本舞踊「雅楽・舞楽」の項にも、歌舞の創成期について触れているので参照して頂ければ幸いである。

上代歌謡という言葉は一般に、「日本書紀」の128首・「古事記」の112首・「風土記」の25首・「続日本紀」の8首・「仏足石歌碑」の21首・「日本霊異記」の9首などの万葉歌を指し、奈良時代末までの文献に収録されている歌の総称となっている。「古事記」「日本書紀」に収録された上代歌謡は、特に「記紀歌謡(ききかよう)」と呼ばれている。祝祭儀礼歌・集団歌舞歌・作業歌・遊行漂泊芸謡・宮廷化芸謡など種類も分類も様々あり、時代を経るに従い、個人が胸中を文字化して謡い表すという創作的立場を主体とした叙情詩、いわゆる「詩歌」へと変質してゆく。その流れの中で、自然に定型が浸透・慣例化していったと考えられている。
歴史背景を見ると、初期の大和時代は氏族中心の社会が営まれており、信仰心が厚く、神話・伝説などを信じ、祭祀儀礼として古代歌謡や呪詞(じゅし)などが口承で行われていたという。しかし4、5世紀頃、大和朝廷として国家統一が起こり、大化の改新・壬申の乱などを経て国として安定してゆき、天皇の権威は絶対的なものとなっていった。この中央集権・専制君主という国家体制成立は思想的に民衆に多大な影響を与え、変化をもたらしたと考えられている。口伝してきた「氏族」の伝承は必要なくなり、次第に「朝廷」への絶対服従に換えられ、古い歌体である「謡」は「歌」へと徐々に遷り変わり、「謡」は詩歌ではなく歌謡のまま存続したと考えられる。現存する最古の和歌集である「万葉集」は、この変遷期に作られたもので、歌と謡の双方が収録されており、年代的には第16代天皇・仁徳天皇の427年(古墳時代)から、天平宝字期の760年前後(奈良時代)の万葉集の編纂までのものが収録されている。一般に文字の使用と詩歌の始まりは密接なものと考えられているが、史実上の文字の使用の初見は第21代天皇・雄略天皇の名と思われる万葉仮名が刻まれた金錯銘鉄剣が、5世紀の稲荷山古墳から発見されており、漢字の音を借りて固有語を表記する方法は5世紀には確立していたと考えられている。文字の使用後、一定の語を句末に用いて声調を整えるという詩の形式の歌謡として、「せどうか短歌」「施頭歌」「片歌」「長歌」などが発達したというので、長歌の誕生もこの頃と推定される。
しかし奈良時代編纂の「万葉集(まんようしゅう)」には260首もの長歌が収録されているが、平安時代の「古今和歌集(こきんわかしゅう)」には長歌は5首、旋頭歌は4首しか見られないため、平安時代には既に衰退してしまったようだ。そこで、これらの歌の最盛期である「万葉集」成立の周辺について少し触れてみることにする。

万葉集(萬葉集)は現存する日本最古の歌集としてあまりにも有名であり、前述のとおり奈良時代の760年前後に編纂されたと言われている。全20巻・4,500首余りを収録しており、内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌(そうもんか)・挽歌(ばんか)の三大部類に分け、誰の手により成立したかは不明であるが、大伴家持が現存の形に近いものにまとめたと考えられている。約400年にわたる全国各地の、天皇・皇后から庶民までのあらゆる階層の人の歌が収められている。五七調で、庶民の心情や豊かな人間性、自然の雄大さなどを素朴・率直に表現したものが多く「ますらをぶり」とも呼ばれる作風が特徴的である。関東・東北地方を舞台に詠まれた「東歌(あずまうた)」や、筑紫・九州北部での軍備・警護に当てられた人々の哀歌「防人歌(さきもりうた)」なども含んでおり、地域性も豊かである。歌の種類は短歌が大半を占めるが長歌なども収録されており、歌には万葉仮名(平仮名や片仮名の替わりに漢字で日本語を表記したもの)が多く用いられ、後に万葉仮名を基にして平仮名・片仮名が誕生したという。

「万葉集」には和歌のみならず、分類名・作者名・題詞・訓注・左注などの記載があるが、和歌以外の部分はほとんど漢文体で表記されている。対して和歌の表記には、先に触れた万葉仮名が使用されており、奈良時代当時の音節数は清音60・濁音27だったことが分かっている。現代語の清音44・濁音18に比べてはるかに多く、現在同じ発音の「い」などの表記は複数存在し、音節は「い」「ゐ」の2種類、といった具合で、現代日本語より複雑だったことが想像できる。

さて、短歌4207首、長歌265首、旋頭歌62首、仏足石歌1首、連歌1首収録されているうち、以下に長歌・短歌以外のものについて、その形式について少し触れてみることにする。

「旋頭歌(せどうか)」とは、5・7・7の句に対し、5・7・7と返すといった具合に片歌を反復したもの。5・7・7・5・7・7の6句よりなり、神と人との問答を原型にしたとされる古い旋律の歌であり、下三句が頭三句と同形式を反復することから名が付いたとされる。又は最初の句頭のイメージを、次の句頭で反復するので旋頭歌と呼ばれるとも。山上憶良や大伴家持らの有名な歌人も作ったが、民謡が多く、かつ方言が使われているものが多い。

「仏足石歌(ぶっそくせきか)」とは5・7・5・7・7・7の6句からなり、普通の和歌の形式(短歌)の後に、最後1句が繰り返しや歌い換えになっているもの。「仏足石」とは仏(釈尊)の足の形を石に刻んだもののことで、奈良時代に日本に伝播したのち各地で作られたという。その石に刻まれた歌を仏足石歌と呼び、一番古いものは薬師寺にある。

「連歌(れんが)」とは、5・7・5の句と7・7の句を交互に多数の作者が詠み継ぎ、一定の句数で完結させるもので、1つの詩になるよう競い合って楽しんだ。大伴家持と尼との唱和が万葉集に収録されており、これが最古とされる。「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」は鎌倉~江戸時代の連歌の基本形で、100句まで読み継ぐもの。また江戸中期以降は「歌仙連歌(かせんれんが)」と呼ばれ、36句を詠み継ぐものになり、現在の連歌の基になっている。

万葉集の主な歌人としては、額田王・柿本人麻呂・山上憶良・大伴家持などが挙げられる。いずれの歌人も有名であるし、日本辞典の「日本人物辞典」を参照されると時代背景も分かるだろう。以下に簡単に紹介することにする。

額田王(ぬかたのおおきみ)  万葉集の代表的歌人の1人で、最初の宮廷歌人であり、皇室の行事・出来事に密着した歌が多い。生没年は不詳だが鏡王の娘で、額田姫王とも呼ばれる。日本書記によると、大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)に嫁ぎ、十市皇女(とおちのひめみこ)を生み、後に中大兄皇子(天智天皇)に仕えた。天武天皇の兄・天智天皇に寵愛されたという説も根強くあり、また藤原鎌足(ふじわらのかまたり)に嫁いだ鏡女王(かがみのおおきみ)の妹とも言われるが、いずれも確証はない。未だ謎めいた女性ゆえ、歌に魅力を感じるとも。

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)  万葉集第一の歌人と称され、長歌首・短歌・旋頭歌を合わせて365首ほどの歌が収録されており、官人達の儀礼的な場で詠んだ宮廷賛歌や旅の歌などが有名である。生没年は不詳だが、年代が判明している歌から、天智天皇の娘・持統天皇(690~697年)の下で活躍したと考えられている。比較的長い長歌を作り、独創的な枕詞や、序詞・枕詞・押韻などを上手く取り入れた格調高い作風で知られ、三十六歌仙の1人で「歌聖」と称されている。特に漢詩文に強く、その影響を受けつつ、複雑で多彩な対句を用いた長歌を作り、長歌を形式上・表現上の双方から一挙に完成させたことから「長歌の完成者」とも呼ばれている。

山上憶良(やまのうえのおくら)  702年の第七次遣唐使船の少録に任命され同行し、唐に渡り儒教・仏教などの最新の学問を学び、帰国後は東宮侍講を経て伯耆守・筑前守と国司を歴任し、特に筑前守の地は「万葉筑紫歌壇」とも称されるほど歌人が集まり、多くの歌が残された。かの地で大伴旅人に刺激を受け、数多くの歌を詠んだとされるが、社会派の異色の歌人であり、万葉集には40才を過ぎてからの約80首が収録されている。代表的な歌に「貧窮問答歌」や「子を思う歌」などがあるが、彼が儒教や仏教の思想に傾倒していたために死・貧・老・病などの問題に敏感であり、老齢であったことから社会的な矛盾について深い観察眼をもっていたことなどが背景にある。百済(韓国)からの帰化人との説もある。

山部赤人(やまべのあかひと)  山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)は、柿本人麻呂より一世代後ではあるが、人麻呂と並び万葉を代表する歌人であり、大伴家持に「山柿の門」と言わしめた。宮廷歌人として荘厳で格式の高い儀礼的な長歌を作ったが、自然の風景を描き出すような叙情的な短歌にも優れ、後世に大きな影響を与えている。万葉集には約50首採り上げられており、中でも富士の高嶺を詠んだ歌が有名で、長歌・反歌共に現代でも親しまれている。

大伴旅人(おおとものたびと)  万葉集には「大宰帥大伴卿(だざいのそちおおともきょう・おほとものまえつきみ)」「大納言卿(だいなごんきょう)」などの敬称で載っている。大らかな、風雅な情緒と、叙情に溢れる歌を詠んだ。万葉集には、76首の歌が載っているが、大宰府師であった老年以降のものしか現存していない。大宰府師の地は「万葉筑紫歌壇」とも称されるほど歌人が集まり、山上憶良らと交流し、多くの歌を残した。特に酒を讃(ほ)むる歌が13首も収録されている点などから、大変な酒好きだったことがうかがい知れる。

大伴家持(おおとものやかもち)  万葉集の成立に深く係わり、編纂者の一人と言われているが確証はない。歌人として名が知られているが武士の家系で、官人としては聖武~桓武朝まで6代の天皇に仕え、藤原仲麻呂暗殺計画を立案するなど政事に対して精力的に活動した。三十六歌仙の一人で、長歌・短歌など最多の473首余りが万葉集に収録され、万葉集の巻17~巻20までの4巻は、大伴家持の「歌日記」とも言える内容となっている。自然をよく観照し、孤独の心情を深化させるところに独自性を発揮した歌人である。

以上、主な歌人を採り上げたが、前述したように長歌から短歌へと遷り変わる過渡期にあり、各々の歌人が様々な形式の歌を詠んでいる。万葉の奈良時代には「長歌」の後にそれを要約・補足・まとめたりする形で「反歌(はんか)」を伴う作法が確立した。通常は短歌を1・2首、反歌として添えるものであったが、万葉集には短歌を3首以上、又は旋頭歌を反歌とするものもあり、歌が作られた時代と収録された時代とのギャップや変遷が伺える。
公的な場での宮廷歌人らによる儀礼的な歌には長歌が代々読まれたこと、返歌や反歌の公的普及により短歌の手法が確立し、また前出の代表的な歌人など最先端で活躍していた者が、短歌を公的に披露したことなどにより、平安時代の古今和歌集が編纂される頃には、和歌といえば短歌を指すほど普及し、長歌・旋頭歌・片歌は衰退の一途を辿ることとなった。

しかし、江戸時代に入り国文学で万葉集研究に重点を置かれたことなどもあり、再び長歌が詠まれる時代が来たという。確かに考古学・民俗学・政事学等、他分野的に見ても貴重な資料であったろうと思われるし、未だに未解読の歌もあるというほど完全な解釈は困難である。確かに解釈は様々あろうが、歌と、詠われた状況から古代人が何を感じ、どんな生活をしていたのかを探ることができるのはとても興味深い。
内容的な部分に少し触れてみると、通い婚であったこと、火葬が行われ始めたこと、航海に命の保証などなかったこと、宮中奉仕への憧憬、流刑・斬首などの厳罰や防人に対する哀感など、当時の様々な世情と、それに対する民衆の視点が見えてくるだろう。
 
総論
日本人の感覚は古来より中国・朝鮮など周辺の人々とは違っていたと言われている。例えば、武功を立てた者がそれを主君にアピールする行為は慎むべし、といった具合である。物事を意思のままストレートに表現しない日本人特有の概念は、古来より歌に詠まれた詩情からもみることができる。そんな複雑で繊細な感覚の人々の作った歌を、現在完全に理解することはかなり難解であるように思うし、詠われた状況を再現できる訳でもないので、ほとんど不可能ではないかと筆者は思う。
「花のにほふ」という言葉がある。花の美しさが空間を埋め尽くし、それを見る人の心もまた同じ美しさに染め上げる、との意味であるという。これがしっくりと合う花、「桜」を日本人が古代より、こよなく愛し続けるのは、「花のにほふ」中に、恍惚となる感覚を日本人は好んできたとも言えるのではないか。こうした言葉で表現し難い感覚を日本人は定型歌にして表現してきたのである。和歌は、こうした略語とも言える様な言葉が満載である。研究者によるこうした解説抜きでは、歌を詠んでもピンと来ないところは悲しいものである。



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